書評:山崎正勝『日本の核開発:1939~1955』(績文堂、2011年12月)2013年04月29日

2012年5月5日にtweet

山崎正勝『日本の核開発:1939~1955』(績文堂、2011.12)を読む。筆者は元東工大教授で科学論・科学史の専門家。日本の原爆・核開発の戦前・戦後史、各段階ごとの技術的達成度、国際的政治的関係、制定された法令などを豊富な史料に基づいて専門家として冷静に記述している良書。

山崎正勝2:第一部は戦前戦中編。米英の科学者は政府に原爆開発を進言。米マンハッタン計画が先陣。独日も進め、日本では海軍が、最終的には陸軍が直轄研究としたが、小規模で原爆製造には遠い段階。仁科芳雄が科学者として中心人物。科学技術の発展は常に軍事と結びついている。

理研や京都帝大が中心的研究施設。理研、阪大、京大にはサイクロトンがあった。

山崎3:第2部戦後編。仁科、湯川ら戦時中に核開発に携わった科学者たちは、広島長崎の惨状を目の当たりにし、原子力は国際管理の下に置き、二度と戦争に使わせないため、戦争そのものがなくなる国際社会の構築、世界政府の成立などを求めた運動を展開。しかし、ソ連の原爆実験の成功によって挫折。

アインシュタインの世界政府構想と類似。
 
山崎4:米アイゼンハワーによるAtoms for Peace国連演説1953年などのように、米ソそれぞれが破壊兵器ではなく原子力の平和利用を錦の御旗に掲げて核開発に邁進。日本でも講和条約批准直後の1951年の学術会議第11回総会で、航空機技術と原子力技術の研究再開の検討が早くも提起された。

原子力については伏見康治が、以後、中心的人物。127
 茅誠司-伏見は平和利用に限って積極推進、三村剛昂は「開発が政治家の手に入ると」必ず軍事利用されるので、その懸念が無くなるまで研究にも反対。武谷三男は「法律によって軍事転用を規制し、研究の公開、公明な討論の下に進める」ことを主張。134-137

山崎5:伏見等の『原子力三原則:公開・民主・自主』原子力憲章案。原子兵器を批判し、原子力の平和利用は人類将来の福祉に貢献とうたう。憲章は不発だったが、1954年3月1日のビキニ水爆実験による第五福竜丸被爆事件を受けて、4月衆参両院の原水爆反対決議、学術会議もやっと三原則声明。

 その後、原子力基本法、米国との原子力協定へと進む。しかし両者は矛盾をはらんでおり、核密約問題と同根。


山崎正勝6:12章。ビキニの悪夢も癒えぬ1955年元旦から.読売新聞による原子力キャンペーン。鳴り物入りの「原子力平和使節団」招待と「原子力平和博覧会」。使節団の団長はGE社長で米原発の売り込みが狙い。読売社主の正力松太郎は日本メディア界の主導権を握り、かつ政治的野望を実現のため。

山崎7:キャンペーンの仕掛け人は正力の下で日本テレビの創設を目指した柴田秀利。ビキニ被爆以来の反米感情・反米運動を押さえ、原子力は平和と発展に寄与と国民の「洗脳」に努めた。これらの資金はほとんどがアメリカからで、CIAとの密接な連携の下で行ったことが近年判明。

山崎8:正力は原子力担当大臣となり、初代原子力委員長として委員の人選を進め、湯川らを取り込む。この原子力委員会の第1回会合後、米側との動力炉交渉に入ることが委員会で決まったと語り、導入を強引に進める。学術会議の3原則と真っ向から抵触し、反発した湯川は委員を辞任。この時期が問題。核密約問題と同根。

ただ辞任の理由は研究と両立せずというもので、もっとはっきりすべきだったと思う。この科学者の曖昧さが、禍根をのこす。

山崎9:1955年頃の学術会議は科学者の良心に満ちていたとも言え、原子力の研究は進めたいが、軍事転用を防ぐためにどうすべきか煩悶。平和利用は人類の福祉に貢献と素朴な捉え方。しかし伏見、朝永、湯川等の間で原子力の平和利用そのものの危険性を何故認識しなかったのか不思議でならない。

山崎10:3.11により我々は平和利用も危険であり、原子力自体が危険であることを強く認識した。後戻りはできない。科学・科学者は政治やメディアの力に抗することはできないのか。学術会議は当時も決断が中々出来なかったが、近年は原子力ムラ体制に組み込まれ、批判的な学者が排除されていた事が明らかになった。

科学者は研究したいとなると自分に歯止めをかけることができないのか?

山崎正勝11:日本は1945年に2度の原爆被害、1954年ビキニ水爆実験による被害、そして2011年福島原発による被害と4回も核による被害を直接受けた世界に類のない国。理系少年として育ち東海村原研ができて誇らしく感じた過去を反省しつつ、今回の事故を悲劇の最後にと強く思う。


山崎正勝12:福島原発事故で、いつの間にか54基もの原発が建設されていたことに衝撃を受け、どのような要因と経過で建設されたのか、どこの誰が推進したのか勉強を始めた。昭和22年、茨城県大洗町に生まれ水戸市で育った私は、海軍少尉で無線通信技師だった父の影響も受け、理科大好き少年として育った。少年時代には東海村に原子力研究所ができたことを誇らしげに感じたことを覚えており、これからは原子力の時代だと素朴に考えていた。その考えは最近まで深く考えることなく続いていたが、3.11大震災と原発事故を目の当たりにし、大きく反省することになった。

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