麻原彰晃らの死刑執行について断想2018年07月28日

オウム真理教元教祖・麻原彰晃こと松本智津夫(63歳)ほかの死刑執行に想う


2018年7月6日(金)午前、松本智津夫ほか7名の死刑が執行された。また7月26日には6名の死刑が執行され、オウム関連の事件で死刑が確定した13人の元幹部全員が執行された。この執行をマスコミを利用した公開処刑であるとか、首謀者以外の処刑は遺憾、また死刑制度そのものに反対するなど様々な意見が噴出している。死刑制度の是非は別問題なので、ここでは考えないが、松本智津夫が全ての凶悪事件の首謀者なのだから、彼のみの死刑で十分であり、他の12名は彼に従ったばかりに人生を狂わせた、むしろ被害者であるかのような論調も散見される。果たして、そうであろうか?
  長年、宗教社会学に携わった者として、次の点はほとんど議論されていないので、若干記しておきたい。Max Weber以来の「カリスマ論」において重要な点は、1.カリスマの成立にはカリスマ的人物の資質と、それを承認する人々や集団の存在が不可欠であり、それとの相互行為によって形成されるという社会学的メカニズムが存在すること。2.カリスマによる支配はウェーバーの「支配の諸類型」の一つであるが、いずれも「支配する側」の「支配への欲求」と「支配される側」の「支配の承認」と「自発的服従」が必要であること。3.カリスマ的人格の成立には、リップの言う「スティグマ化⇒自己スティグマ化⇒カリスマ化」という三段階での分析が有効である、などである。ここでは1.と2.から考えてみる。
  松本智津夫が「オウム神仙の会」を立ち上げる以前から、盲目にもかかわらず(片目は視力1.0あったという指摘もあり、事実なら全盲ではない)、または盲目であるが故に並外れた運動能力など特殊とも言える能力を示していたことは、様々に語られている。人間には普段は見えない様々な潜在能力をもっていることは事実であり、特に障害を抱える人間には健常者にない鋭い感覚や観察力等を持つ可能性は十分にある。彼が、そのような尋常でない能力をもっていたことは事実であろう。その意味で、下記の熊田一雄氏の主張は参考になる。
「オウム真理教について、私が皆さんの意見に付け加えることはあまりありませんが、おそらく知られていないエピソードをひとつ書いておきます。
 私が昔体を診てもらっていたリブ系の女性整体師さんー上野千鶴子さんも診ていましたーは、ヨガもしていたのですが、彼女によると、麻原がオウム神仙の会を始める以前から、松本智津夫の名前は、日本のヨガ関係者の間で「天才が出現した」として知られ渡っていたそうです。整体師さんも、評判を聞いて、見学に行ったそうです。「本物の天才だった」と評していました。運動神経が人間離れしていたのだそうです。
 麻原が特殊な才能を持っていたことをふまえないと、オウム真理教事件は理解できないと思います。」(熊田一雄 facebook, 20180712)

  しかし、彼がどんなに強い能力をもち、それを示していたとしても、松本智津夫の能力を承認し、賛嘆する人々が集まり、ある規模の集団が形成されなければ、彼はカリスマ的存在にはならないし、それによる支配も成立しない。「神仙の会」の頃、また「オウム真理教」形成の初期の頃は、彼のいわば超能力を自分も身につけたいと願望する人々、さらにはその能力によって新たな自分を発見・開発したいと願う人々が集ってきたに相違ない。こうして初期のカリスマ的支配による小集団が形成された。
 この段階では、グルと呼ばれた松本と弟子たちは修行や鍛錬によって相互に獲得した能力を承認しあい、より高い段階を目ざす緩やかな競争が始まった。吉永進一氏の言葉を借りれば、それは「教祖と弟子の幸せな時間」だっただろう。しかし、この幸せの時間は長くは続かず、グルはグルで自分のより高い能力を示そうとし、それに対して弟子は自分が最も熱心で忠実な弟子であること、グルの教えを正しく理解し信じていること、忠誠心が強いことなどをますます示そうとする。その過程で自分の有する高度な科学的知識や医学的、または法律上の知識や技法をもって忠誠心を示そうとするなど、師匠を神秘化・カリスマ化する「ごますり」で弟子としての自分の存在価値を示そうとする。こうした相互の承認し合いの競争行為によってグルはますますカリスマ化され、弟子たちはそのカリスマの弟子であることに喜びをみいだし、弟子相互も一番弟子たらんと競争しだす。グルは弟子どもの競争をさらに煽ることもままあっただろう。こうしたスパイラルが「暴走の構造」を生み出していったと考えられる。それは、どこかの若手社会学者がしたり顔で「忖度」があったなどと言っていたが、そんな程度のものではない。
  松本がヨガ修行者として、ヨガ修行法や仏教の知識において、また人間観察力などで他の弟子たちより抜きんでていたとしても、サリンやVXガス、その他の武器について、ましてやその製造法について知っていたはずはない。それらの知識や使用効果について弟子どもがせっせとご注進し、よし、それを使えば警察の捜査を攪乱できるぞ、それがハルマゲドンの始まりだ!などと掛け合ううちに、どんどん暴走していったと考えられる。松本が「弟子が暴走した」などと呟いたというが、ある面では真実かも知れない。しかし、それに乗っかり、自らも暴走したのであるから、その責任は重い。
1991年9月8日の「朝まで生テレビ」に出演した麻原彰晃こと松本智津夫の映像と話を改めて観たが、かれの科学に対する考え方は、素朴実証主義とでもいうレベルで、「ある公式を実験や体験によって何度も確認できれば、それが真理だ」というものである。戦後発展した他の宗教団体にも自分たちの主張は「科学的」だと述べていた教団が幾つかあったが、それと似たような程度であったことからも、上記のことは言えそうである。
 もちろん、数々の殺人事件やサリン散布事件の最終決定、またその決定を宗教的な言説で正当化し、弟子たちに有無を言わせずに実行させた最終責任が松本智津夫にあることは言うまでもない。その意味で、彼が首謀者として死刑になったことは当然である。しかし同時に、松本一人でこれだけの集団的暴走を行いえたのではない。彼をカリスマ化し、そのカリスマに自ら従って集団として暴走させた責任は、彼の側近たちにもある。その意味で、側近たちの処刑が同時に行われたことに意義がないわけではない。
 松本は「自分は修行によって最終解脱に達した」と語ったというが、解脱したと確信しようが、何かの生まれ変わりと主張しようが、所詮は人間であることに変わりはない。人間個人の間で能力の多様性や差はあり、ある人物が平均的な人間の能力を超えた何かをもつことはあるだろうが、だからといって自然界に生きる人間であることに変わりはない。換言すれば、自然界の物理化学的法則を越えた存在であり得るはずはない。「空中浮揚」についても、当初からトリック写真だと見抜いていた人もいたし、私もいかがわしいと思っていた。ヨガ的修行によって結跏趺坐したまま少々飛び跳ねることは出来る。それを週刊プレイボーイのカメラマンがタイミング良く撮った写真を大々的に活用して超能力だと宣伝し、それを三流メディアが面白おかしく報道しあい、それに乗せられたり、憧れたりした若者たちによって、彼のカリスマ性が捏造されていったに過ぎない。
  人間は生物進化の過程で様々な能力を発展させてきた。ある種の神秘的体験、宗教的体験といわれる経験をする能力をも発展させ、あたかも霊界や超越的世界、死後の世界に行ったなどと、それら超自然的世界が実在するかのような感覚にとらわれることがある。しかし、それは人間の幻覚体験であって、そのような世界は実在しない。26日に死刑となった元信者・広瀬健一氏の手記「学生の皆さまへ」が公開されたが、彼が麻原の説く宗教的世界に飲み込まれていった過程を生々しく語っている。是非、多くの人に読んでもらいたい。 http://religion.sakura.ne.jp/religion/aum/hirose.pdf

人間には優れた面と同時に唾棄すべき面を、誰でもがもっている。人間には成功もあれば失敗もある。どんな優れた人物でも間違うことはある。善き人間は常に自己反省を忘れず、間違いを犯した際にはきちんと認めて修正していける人間である。優れた指導者は、弟子や自分の組織が暴走し始めたり、間違った方向に動き出したなら、それを身をもって止めたり、方向を変えられる人物である。松本は、その両方の面で失格であった。

私たちがこの事件をとおして学ばなければならないことは、特定の人間を神秘化したり、全知全能のごとく見なしたり、間違いのない絶対者のごとくカリスマ化することの危険性である。カリスマ的人物への盲信・盲従は危険である。そのような存在には常に懐疑の目を向けることが必要なのである。
特に、宗教現象や宗教運動を学問的に、または(人文また社会)科学的に研究する宗教学者であるなら、尚更であろう。