島田裕巳『性と宗教』(講談社現代新書、2022年1月刊)を読む ― 2022年03月21日
島田裕巳『性と宗教』(講談社現代新書、2022年1月刊)を読む
2022.3.14 中野毅
宗教に関連する様々な領域において、旺盛な執筆活動を続けている島田裕巳氏であるが、古くから問題とされてきたにもかかわらず、何となく躊躇されてきた印象のある「性と宗教」について正面から切り込んだ一書を刊行したので読んでみた。
ここでの性とは、文化的社会的に形成された性差としてのジェンダーはなく、行為としてのセックスであり、生物学的な性です。なぜ、それが問題となるかといえば、仏教では「不邪淫戒」を説き、妻帯しない出家(妻帯が常態化している日本は特殊)を尊重し、キリスト教ではカトリックの聖職者独身制などが知られていて、宗教では「禁欲」、すなわち性的欲望を抑えることが望ましいと宗教一般に考えられているという印象があるからである。その一方では、宗教界における性をめぐるスキャンダルが絶えない。それは何故なのか、宗教的規制が不十分なのか、もはや時代にそぐわないのかなど興味が尽きないテーマではある。
本書では世界の主要な宗教、すなわちユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教、仏教、ヒンドゥー教、神道などを取りあげ、性的欲望をどのように規制しているかを比較しながら解説している。新書ながら、この大きな問題を包括的に捉えた点で、なかなか意欲的であり、傑作と言える。以下、筆者が関心を抱いた点を中心に紹介する。
第1章は「なぜ人間は宗教に目覚めるのか」と題して、人間が宗教によって禁欲を命じられているのは、性欲をもち、かつ他の動物が年に一度の繁殖期に性行為をし、子孫を残すのに対し、人間は一年中性欲をもようし、性行為を行う動物であることを出発点においている。この事は筆者も重要だと常々考えている。
また人間が言語を発達させたことが、現実に存在しないものまで概念化し、その言葉が独り歩きを始め、神や仏など超越的存在を実在するかのような世界を生み出した。
宗教心理学のジェームス、スターバックの研究から思春期に宗教的回心が起こることに注目しているが、それは主としてアメリカにおける福音主義キリスト教においてであること、日本やイスラム世界にはあり得ないとしている。
本書のよさは、性についての態度を主要な宗教を比較しながら検討しているので、普段、比較宗教学などを教えていても見逃してしまう事を気づかせる点にある。その最たる事が、性を否定的に捉え、禁欲を是とするのはキリスト教と仏教の一部のみであるという事実である。宗教はおしなべて禁欲を説くものと思い込んでいたことが、誤りだと気づかされた。
第2章で主にキリスト教が性を否定的に捉える理由を解説している。それは「原罪」の考えがあるからで、その発想は同じ一神教でも、母体となったユダヤ教、そしてユダヤ教の影響を強く受けて成立したイスラム教にはない。しかもイエスの福音書とされるものやパウロの書簡にもなく、つまり初期キリスト教にもその発想はなかった。原罪論を強調するようになったのは、教父アウグスティヌス(354-430)の影響だという。彼はもとはマニ教徒だったが、愛欲生活に溺れた末にキリスト教に改宗し、原罪を強調するようになったという。人間は誰もが生まれながらにして罪を負っている。人は罪人であり、あるいは必ず罪をおかす存在だという原罪論は、自己を反省する契機にもなるが、人間性を否定することでもある。そのような原罪の教義が公式の教義になったのはAD529年のオランジュ公会議においてであり、イエスが死んでから約500年も後のことである(56頁)。その背景には、初期キリスト教には「イエス(神)の再臨」は間近く、この世の悪が裁かれる「最後の審判」が行われるという観念が強かったが、いつまで経っても神は再臨しなかった。そこで教会の存在意義を強調するため「原罪」を強調し、それを許す「贖罪」の権能を唯一保有していることを「七つの秘蹟」の保持者=キリスト教会であると宣言し、存在意義を示したのである。
従って、その後は「贖罪」のための行為が重視され、十字軍への参加も贖罪のためとされ、また現在まで続いているカトリック教会における「告解」もそのためである。
第3章、第4章では主に仏教を扱い、3章は戒律の復興運動に力を入れ、真言律宗の事実上の開祖として知られる叡尊(1201-90)が、実は「破戒僧」の子だったことから筆を進め、仏教は出家者を主たる担い手としているため五戒を基本に具足戒として細かい禁欲的戒律が定められており、日本でも「僧尼令」(養老2,718年)で僧坊に異性を止めることを禁止したが、日本仏教界では破戒が広く行われていたことを描いている。
4章では原始仏典に遡り、スッタニパータに不殺生戒、不邪淫戒、不飲食戒など五戒が説かれているが、その理由はさほど明示されていない。それは釈迦以前のバラモンからの伝統でもあったためでもあろうが、仏教において「愛欲が人間苦の根本」であり、仏教教団における戒律制定の嚆矢をなすものはこの淫戒である等の説を紹介している。また仏教と並んで発展したジャイナ教においては不殺生戒と不邪淫戒が強く結びつき、妻との性交も女性器にいる微生物、細菌を殺す恐れがあるとして禁じる主張があるなど、その徹底ぶりには驚愕する(110-114頁)。
しかし、このような傾向が宗教一般に見られるわけではないと主張するのが本書の特徴でもある。第5章では性行為に価値をおく宗教として道教をあげ、エリアーデの論を活用しながら房中術を解説し、それら性の技法がインドの左道タントリズムが開発したヨーガの影響を受けていると指摘している(123頁)。この左道タントリズムがヒンドゥーのシヴァ派の一派で性力(シャクティ)を重視しており、オーム真理教が説いた「クンダリーニの覚醒」へとつながっていくことも明らかにした。
後半では、仏教における密教も性の快楽を肯定しているものとして説明し、中でも『理趣経』において性的欲望を全面的に肯定し、むしろ完全に清らかなものとされているという(131頁)。そしてこの理趣経を日本にもたらしたのが空海であり、最澄が貸して欲しいと求めたのに空海は断ったが、それは余りに過激な内容だったからだろうと興味深い説を述べている(132頁)。
総じて、密教は顕教における禁欲的修行では真の悟りには達し得ないとして、顕教の考え方を完全に覆す方法による悟りをめざした宗教であるという。
第6章でイスラムについて詳細の論じ、ユダヤ・キリスト教とならぶ一神教であるが、むしろユダヤ教の影響が強く、ユダヤの律法に似てイスラム法が重視され、原罪の教えはない。衆知のことだが創唱者ムハンマドは俗人であり、神の教えを広める預言者という位置づけであること、彼が神から受けた啓示がコーランに纏められ、彼の命令や生活における教えはスンナとしてイスラム教徒の生活において重要な意味を持つことなど整理されている。面白いのはムハンマドが性欲旺盛で9人の妻を持って、一晩で全てと交わったとか、性行為そのものについてタブーは見られないこと、ただ性交の後には精液が残っていないように「浄め」てから礼拝することなど、神の前での清浄が求められたことなどが指摘されている。
信者がなすべき信仰告白や礼拝、断食、喜捨、巡礼の5つの宗教行為(5行)が定められているが、それらを実行すればキリスト教のように自らの罪深さを自覚することも求められないし、仏教のように煩悩を自覚する必要もない。
第7章は日本仏教でも性を否定しない宗派として親鸞と浄土真宗の発展を取りあげている。親鸞について島田氏は『親鸞と聖徳太子』(角川新書)を書いている。結局、親鸞が妻帯した理由を本人は何処にもしるしてなく、聖徳太子から授かったとされる「女犯偈」も歴史的事実としての信憑性は弱い。ともかく事実として親鸞は女犯をし、恵信尼と結婚したことは、彼女の日記から明らかであり、公然と妻帯する親鸞の生き方が、後の真宗の発展に決定的な影響をあたえたとする。典型的なのが蓮如であり、死別によるのだが5回結婚し、13人の男子と14人の女子を儲け、このうち早逝したのは2人だけだった。蓮如が最後に子供をもうけたのは亡くなる前年に83歳の時だったというから驚きである。そして、これら男子は寺の開基となり、女子は寺などに嫁いで真宗のネットワークを拡げる上で大きく貢献したのが、浄土真宗発展の一大要因としたのは興味深い。かくして全国に門徒を拡げ、多くの寄進を集めて膨大な財力と権力を獲得していったことが、江戸時代においても僧侶妻帯が許された要因のようだ。
第8章は中世に仏教と習合した神道では、性の問題はどう扱われるか検討している。何より面白かったのは冒頭で、日本の民俗学の泰斗たちの性への関係でした。柳田は性についてはまったく触れず、南方熊楠は強い関心をもち、少年と同辱した経験をもつという。折口信夫は同性愛者だった。
その折口が執筆した代表的論文に「大嘗祭の本義」(1930年)がある。天皇が代替わりをする最重要な儀式である大嘗祭の諸儀礼のなかで悠紀殿と主基殿に敷かれている褥に注目し、そこで天皇霊と性行為を行うと解釈したのである。筆者は単純に、そこにおいて天照大神と交わるという象徴的な行為を想像していたが、折口の説ではもっと生々しく、かつ男色ともとれる行為を考えていたのではないかというスキャンダラスな説を展開している(208頁)。そのほか古事記や本居宣長、平田篤胤などの解釈、源氏物語などをあげながら、日本の神道や伝統文化には性を抑圧しようという発想は認められないとしている。
第9章は「なぜ処女は神聖視されるのか」というタイトルで、キリスト教を再び取りあげ、処女マリアのイエス・キリストの受胎ほどスキャンダラスで問題を多く含むテーマはないと論じている。初期キリスト教や福音書などではマリアのことは余り深く触れられていないが、アウグスティヌスの影響で「原罪」論が6世紀に公式の教義となったため、マリア、およびその受胎を教義上どのように扱うかが次第に問題となった。そしてマリアの受胎を「無原罪の御宿り」、すなわち神がマリアに宿った瞬間からマリアは全ての罪から免れた「無原罪」の存在になったとする説が誕生した。それは9世紀フランスのコルビー修道院長ラドベルトウスから始まり、12世紀のイングランドの神学者エアドルメルスは神学的に裏付けようとした。しかし、この「無原罪の御宿り」がカトリック教会の正式の教義になったのはかなり後の教皇ピウス9世の回勅(1854年)によってであり、その背景に19世紀のマリア崇拝ブームがあるという。筆者としては、このマリア崇拝ブームが何故起こったのかに、特に興味をもった。
他方、イスラム教には原罪の観念はなく、性に対する禁忌はないが、ムハンマドは処女との結婚をより好ましいものとしていたこと、さらに2001年の同時多発テロの首謀者であったウサーマ・ブン・ラーディンが出したジハード宣言で「殉教者たちは天国に召され、72人の純粋なる楽園の処女たちと結婚できる」という一節を取りあげ、イスラム教でも処女を高く評価していること、処女への憧れが殉教としてのテロ行為まで引き起こした可能性も指摘している(後者への疑問は残るが)。しかし、イスラムでは特定の処女を聖人化したり崇拝することはない。
では何故、キリスト教ではマリア崇拝が起こったのか?島田氏は、イスラム教では神の慈悲深さが強調され、あらゆることを許してくれる存在だと繰り返し説かれるが、キリスト教の神やイエスは到底慈悲深いようには見えない。そこで登場したのがマリアだ。福音書ではほとんど語られていない彼女が、やがて聖母子像などのように彫刻や絵画で幼子イエスを抱く、優しく慈悲深い存在としてクローズアップされたのだという。こうしてイエスは後景に退いて「暇な神」(エリアーデ)になり、「父なる神、神の子イエス、母マリア」という新たな三位一体が形成されることになり、そのためにはマリアが処女であり、原罪を免れていることが重要だったという(243頁)。
おわりにでは、全体の簡単な整理をした上で、「宗教は本質的に男性中心主義」であり、仏教は約2500年前、キリスト教は2000年前、新しいイスラム教でも1400年前に誕生したものである、それらの宗教と性の関係は現代にそぐわなくなったと指摘している。また人間の特異な性のあり方が、宗教という人間特有のものを生みだし、その力で性をコントロールしてきた。しかし現代での性のあり方は宗教がコントロールできなくなっている。性と切り離された宗教は、綺麗事になるだろうが、本質的なものではなくなっていくと結んでいる。
新書なので簡単に紹介しておこうと思ったが、大きなテーマであり、各章の内容も極めて興味深いので予定以上に長くなった。しかし、要点や私が関心をもった点は整理できた。
本書で特に注目したのは、性と宗教を論じる際に、人間の生物学的特徴として指摘される「性欲が一年中あり、常に性交が可能な点で他の動物とは大きく異なる」という事実、また言語の獲得が宗教の誕生に決定的な意義をもっているなどの指摘から始まっている点である。これらは評者(中野)が大学院時代に故・井門富二夫先生から教えられたアルノルト・ゲーレンの哲学的人間学、またその後の進化生物学などで展開された論であり、私も幾つか論考を書いている。関心のある方は以下を参照して欲しい。
1. 中野毅「人類進化と文化の形成 ─現代人間学考2─」『創価人間学論集』第4号、2011年3月、27-55頁。
https://soka.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=36531&item_no=1&page_id=13&block_id=68
2. 中野毅「進化生物学・認知科学の発展と宗教文化―人間学考3―」同前、第7号、2014年3月、1-22頁。
https://soka.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=36543&item_no=1&page_id=13&block_id=68
3. 「学術動向:宗教の起源・再考―近年の進化生物学と脳科学の成果から―」2014.3.4『現代宗教2014』)(公財)国際宗教研究所、251-285頁。http://www.iisr.jp/journal/journal2014/
(1、2の論文を簡潔に整理したもの)
ゲーレンの主張は、人間以外の動物は特定の自然環境に身体的に適応しながら生きているが、人間は生物形態学から見れば、むしろ一定の自然環境に適応する上で必要な特殊器官(体毛や甲殻などの保護器官や牙などの攻撃器官等々)が欠けており、動物一般に見られる機械的な適応本能が欠けていると考えざるを得ない。その意味では人間はヘルダーの言うように本能の機能としては「欠陥生物」であるという。その代わりに、人間の頭脳は特殊化の極限に達しており、人間は頭脳を駆使して、未来を予見し、計画に基づいて現実を変化させる「行為」を遂行することができる。この「意識的な」行為によって、変化させられた、ないしは新たに作られた事実と、それに必要な手段との総体が「文化」である。人間は行為によって自然環境を変化させ、人為的に「形成された自然」圏、すなわち文化圏の中に生きるのである(ゲーレン, アルノルト, 1999年『人間学の探求』紀伊國屋書店、復刊版(1970年邦訳初版)、32, 36-38, 91,125頁)。
その本能的欠陥動物としての最たる特徴が、常に性欲をもようし性行為を行う事である。そのため人口も爆発的に増加し、いまや全地球を覆うまでになった。この旺盛な性欲をコントロールするため様々な婚姻規制や親族構造を構築していったといえる。
また「言語の発達」も人間文化の大きな特徴であり、言語によって情報や知識、智惠の伝達、蓄積、世代間の継承が可能になり、今日の複雑で巨大かつ多様な文化構造を生みだしていった。またその言語によって現実には実在しない神や仏などの超自然的なものをさす言語がうまれ、それが「言霊」などとして一人歩きしだすのも人間文化の特徴である。その意味で宗教は人間文化の典型的なものであり、人間の誕生とともに宗教も誕生したと言われる所以である。
本書では、新書の限度を越えるからだろうが、このような理論的背景については語っていない。しかしそれらを前提にしつつ、「性」のコントールを宗教が担ったという視点で書かれている。宗教の一つの機能として、それは十分に言える。ただ、それならば、「禁欲」を表だって強調しないイスラム教やユダヤ教、その他も何らかの性的規制を行っているはずであり、それらの分析はまだ十分とは言えない。
細かい点では疑問に思う点もいくつかある。例えば「イスラム教には、・・・独身の聖職者はまったく存在していません(97頁)」のような雑な既述も散見する。そもそもイスラム教には聖職者はいない。またイスラムが一般に性に開放的なので、過激な行動を促す方向に作用している(246頁)とは単純に言えない。また死海文書の研究からマリアによるイエス受胎は正式な結婚の前であったとか、イエスは毒殺されたのであり、磔刑は単なる見せしめであって、実際に生き返ったなどと実に興味深い研究をしたバーバラ・スィーリング『イエスのミステリー』(NHK出版、1993年)などに評者はいたく感心したが、これらイエス研究やキリスト教史についての先端に必ずしも触れていない点、学問的方法論が不明など疑問点や不満はあるが、それらは今後、専門家の諸氏からのコメントを待ちたいところではある。
しかし冒頭にも記したように、諸宗教に関する該博な知識をもとにして、「性と宗教」について新書版にまとめ上げた島田裕巳氏の学力筆力に改めて感銘した。普段は見逃していた問題点を気づかせてくださり、本書はまことに有益であった。
(この書評の全文pdfは下記からダウンロード出来ます。
https://drive.google.com/file/d/1xpN475eI6500bCbFWAEysaOWUV5sG66d/view?usp=sharing
2022.3.14 中野毅
宗教に関連する様々な領域において、旺盛な執筆活動を続けている島田裕巳氏であるが、古くから問題とされてきたにもかかわらず、何となく躊躇されてきた印象のある「性と宗教」について正面から切り込んだ一書を刊行したので読んでみた。
ここでの性とは、文化的社会的に形成された性差としてのジェンダーはなく、行為としてのセックスであり、生物学的な性です。なぜ、それが問題となるかといえば、仏教では「不邪淫戒」を説き、妻帯しない出家(妻帯が常態化している日本は特殊)を尊重し、キリスト教ではカトリックの聖職者独身制などが知られていて、宗教では「禁欲」、すなわち性的欲望を抑えることが望ましいと宗教一般に考えられているという印象があるからである。その一方では、宗教界における性をめぐるスキャンダルが絶えない。それは何故なのか、宗教的規制が不十分なのか、もはや時代にそぐわないのかなど興味が尽きないテーマではある。
本書では世界の主要な宗教、すなわちユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教、仏教、ヒンドゥー教、神道などを取りあげ、性的欲望をどのように規制しているかを比較しながら解説している。新書ながら、この大きな問題を包括的に捉えた点で、なかなか意欲的であり、傑作と言える。以下、筆者が関心を抱いた点を中心に紹介する。
第1章は「なぜ人間は宗教に目覚めるのか」と題して、人間が宗教によって禁欲を命じられているのは、性欲をもち、かつ他の動物が年に一度の繁殖期に性行為をし、子孫を残すのに対し、人間は一年中性欲をもようし、性行為を行う動物であることを出発点においている。この事は筆者も重要だと常々考えている。
また人間が言語を発達させたことが、現実に存在しないものまで概念化し、その言葉が独り歩きを始め、神や仏など超越的存在を実在するかのような世界を生み出した。
宗教心理学のジェームス、スターバックの研究から思春期に宗教的回心が起こることに注目しているが、それは主としてアメリカにおける福音主義キリスト教においてであること、日本やイスラム世界にはあり得ないとしている。
本書のよさは、性についての態度を主要な宗教を比較しながら検討しているので、普段、比較宗教学などを教えていても見逃してしまう事を気づかせる点にある。その最たる事が、性を否定的に捉え、禁欲を是とするのはキリスト教と仏教の一部のみであるという事実である。宗教はおしなべて禁欲を説くものと思い込んでいたことが、誤りだと気づかされた。
第2章で主にキリスト教が性を否定的に捉える理由を解説している。それは「原罪」の考えがあるからで、その発想は同じ一神教でも、母体となったユダヤ教、そしてユダヤ教の影響を強く受けて成立したイスラム教にはない。しかもイエスの福音書とされるものやパウロの書簡にもなく、つまり初期キリスト教にもその発想はなかった。原罪論を強調するようになったのは、教父アウグスティヌス(354-430)の影響だという。彼はもとはマニ教徒だったが、愛欲生活に溺れた末にキリスト教に改宗し、原罪を強調するようになったという。人間は誰もが生まれながらにして罪を負っている。人は罪人であり、あるいは必ず罪をおかす存在だという原罪論は、自己を反省する契機にもなるが、人間性を否定することでもある。そのような原罪の教義が公式の教義になったのはAD529年のオランジュ公会議においてであり、イエスが死んでから約500年も後のことである(56頁)。その背景には、初期キリスト教には「イエス(神)の再臨」は間近く、この世の悪が裁かれる「最後の審判」が行われるという観念が強かったが、いつまで経っても神は再臨しなかった。そこで教会の存在意義を強調するため「原罪」を強調し、それを許す「贖罪」の権能を唯一保有していることを「七つの秘蹟」の保持者=キリスト教会であると宣言し、存在意義を示したのである。
従って、その後は「贖罪」のための行為が重視され、十字軍への参加も贖罪のためとされ、また現在まで続いているカトリック教会における「告解」もそのためである。
第3章、第4章では主に仏教を扱い、3章は戒律の復興運動に力を入れ、真言律宗の事実上の開祖として知られる叡尊(1201-90)が、実は「破戒僧」の子だったことから筆を進め、仏教は出家者を主たる担い手としているため五戒を基本に具足戒として細かい禁欲的戒律が定められており、日本でも「僧尼令」(養老2,718年)で僧坊に異性を止めることを禁止したが、日本仏教界では破戒が広く行われていたことを描いている。
4章では原始仏典に遡り、スッタニパータに不殺生戒、不邪淫戒、不飲食戒など五戒が説かれているが、その理由はさほど明示されていない。それは釈迦以前のバラモンからの伝統でもあったためでもあろうが、仏教において「愛欲が人間苦の根本」であり、仏教教団における戒律制定の嚆矢をなすものはこの淫戒である等の説を紹介している。また仏教と並んで発展したジャイナ教においては不殺生戒と不邪淫戒が強く結びつき、妻との性交も女性器にいる微生物、細菌を殺す恐れがあるとして禁じる主張があるなど、その徹底ぶりには驚愕する(110-114頁)。
しかし、このような傾向が宗教一般に見られるわけではないと主張するのが本書の特徴でもある。第5章では性行為に価値をおく宗教として道教をあげ、エリアーデの論を活用しながら房中術を解説し、それら性の技法がインドの左道タントリズムが開発したヨーガの影響を受けていると指摘している(123頁)。この左道タントリズムがヒンドゥーのシヴァ派の一派で性力(シャクティ)を重視しており、オーム真理教が説いた「クンダリーニの覚醒」へとつながっていくことも明らかにした。
後半では、仏教における密教も性の快楽を肯定しているものとして説明し、中でも『理趣経』において性的欲望を全面的に肯定し、むしろ完全に清らかなものとされているという(131頁)。そしてこの理趣経を日本にもたらしたのが空海であり、最澄が貸して欲しいと求めたのに空海は断ったが、それは余りに過激な内容だったからだろうと興味深い説を述べている(132頁)。
総じて、密教は顕教における禁欲的修行では真の悟りには達し得ないとして、顕教の考え方を完全に覆す方法による悟りをめざした宗教であるという。
第6章でイスラムについて詳細の論じ、ユダヤ・キリスト教とならぶ一神教であるが、むしろユダヤ教の影響が強く、ユダヤの律法に似てイスラム法が重視され、原罪の教えはない。衆知のことだが創唱者ムハンマドは俗人であり、神の教えを広める預言者という位置づけであること、彼が神から受けた啓示がコーランに纏められ、彼の命令や生活における教えはスンナとしてイスラム教徒の生活において重要な意味を持つことなど整理されている。面白いのはムハンマドが性欲旺盛で9人の妻を持って、一晩で全てと交わったとか、性行為そのものについてタブーは見られないこと、ただ性交の後には精液が残っていないように「浄め」てから礼拝することなど、神の前での清浄が求められたことなどが指摘されている。
信者がなすべき信仰告白や礼拝、断食、喜捨、巡礼の5つの宗教行為(5行)が定められているが、それらを実行すればキリスト教のように自らの罪深さを自覚することも求められないし、仏教のように煩悩を自覚する必要もない。
第7章は日本仏教でも性を否定しない宗派として親鸞と浄土真宗の発展を取りあげている。親鸞について島田氏は『親鸞と聖徳太子』(角川新書)を書いている。結局、親鸞が妻帯した理由を本人は何処にもしるしてなく、聖徳太子から授かったとされる「女犯偈」も歴史的事実としての信憑性は弱い。ともかく事実として親鸞は女犯をし、恵信尼と結婚したことは、彼女の日記から明らかであり、公然と妻帯する親鸞の生き方が、後の真宗の発展に決定的な影響をあたえたとする。典型的なのが蓮如であり、死別によるのだが5回結婚し、13人の男子と14人の女子を儲け、このうち早逝したのは2人だけだった。蓮如が最後に子供をもうけたのは亡くなる前年に83歳の時だったというから驚きである。そして、これら男子は寺の開基となり、女子は寺などに嫁いで真宗のネットワークを拡げる上で大きく貢献したのが、浄土真宗発展の一大要因としたのは興味深い。かくして全国に門徒を拡げ、多くの寄進を集めて膨大な財力と権力を獲得していったことが、江戸時代においても僧侶妻帯が許された要因のようだ。
第8章は中世に仏教と習合した神道では、性の問題はどう扱われるか検討している。何より面白かったのは冒頭で、日本の民俗学の泰斗たちの性への関係でした。柳田は性についてはまったく触れず、南方熊楠は強い関心をもち、少年と同辱した経験をもつという。折口信夫は同性愛者だった。
その折口が執筆した代表的論文に「大嘗祭の本義」(1930年)がある。天皇が代替わりをする最重要な儀式である大嘗祭の諸儀礼のなかで悠紀殿と主基殿に敷かれている褥に注目し、そこで天皇霊と性行為を行うと解釈したのである。筆者は単純に、そこにおいて天照大神と交わるという象徴的な行為を想像していたが、折口の説ではもっと生々しく、かつ男色ともとれる行為を考えていたのではないかというスキャンダラスな説を展開している(208頁)。そのほか古事記や本居宣長、平田篤胤などの解釈、源氏物語などをあげながら、日本の神道や伝統文化には性を抑圧しようという発想は認められないとしている。
第9章は「なぜ処女は神聖視されるのか」というタイトルで、キリスト教を再び取りあげ、処女マリアのイエス・キリストの受胎ほどスキャンダラスで問題を多く含むテーマはないと論じている。初期キリスト教や福音書などではマリアのことは余り深く触れられていないが、アウグスティヌスの影響で「原罪」論が6世紀に公式の教義となったため、マリア、およびその受胎を教義上どのように扱うかが次第に問題となった。そしてマリアの受胎を「無原罪の御宿り」、すなわち神がマリアに宿った瞬間からマリアは全ての罪から免れた「無原罪」の存在になったとする説が誕生した。それは9世紀フランスのコルビー修道院長ラドベルトウスから始まり、12世紀のイングランドの神学者エアドルメルスは神学的に裏付けようとした。しかし、この「無原罪の御宿り」がカトリック教会の正式の教義になったのはかなり後の教皇ピウス9世の回勅(1854年)によってであり、その背景に19世紀のマリア崇拝ブームがあるという。筆者としては、このマリア崇拝ブームが何故起こったのかに、特に興味をもった。
他方、イスラム教には原罪の観念はなく、性に対する禁忌はないが、ムハンマドは処女との結婚をより好ましいものとしていたこと、さらに2001年の同時多発テロの首謀者であったウサーマ・ブン・ラーディンが出したジハード宣言で「殉教者たちは天国に召され、72人の純粋なる楽園の処女たちと結婚できる」という一節を取りあげ、イスラム教でも処女を高く評価していること、処女への憧れが殉教としてのテロ行為まで引き起こした可能性も指摘している(後者への疑問は残るが)。しかし、イスラムでは特定の処女を聖人化したり崇拝することはない。
では何故、キリスト教ではマリア崇拝が起こったのか?島田氏は、イスラム教では神の慈悲深さが強調され、あらゆることを許してくれる存在だと繰り返し説かれるが、キリスト教の神やイエスは到底慈悲深いようには見えない。そこで登場したのがマリアだ。福音書ではほとんど語られていない彼女が、やがて聖母子像などのように彫刻や絵画で幼子イエスを抱く、優しく慈悲深い存在としてクローズアップされたのだという。こうしてイエスは後景に退いて「暇な神」(エリアーデ)になり、「父なる神、神の子イエス、母マリア」という新たな三位一体が形成されることになり、そのためにはマリアが処女であり、原罪を免れていることが重要だったという(243頁)。
おわりにでは、全体の簡単な整理をした上で、「宗教は本質的に男性中心主義」であり、仏教は約2500年前、キリスト教は2000年前、新しいイスラム教でも1400年前に誕生したものである、それらの宗教と性の関係は現代にそぐわなくなったと指摘している。また人間の特異な性のあり方が、宗教という人間特有のものを生みだし、その力で性をコントロールしてきた。しかし現代での性のあり方は宗教がコントロールできなくなっている。性と切り離された宗教は、綺麗事になるだろうが、本質的なものではなくなっていくと結んでいる。
新書なので簡単に紹介しておこうと思ったが、大きなテーマであり、各章の内容も極めて興味深いので予定以上に長くなった。しかし、要点や私が関心をもった点は整理できた。
本書で特に注目したのは、性と宗教を論じる際に、人間の生物学的特徴として指摘される「性欲が一年中あり、常に性交が可能な点で他の動物とは大きく異なる」という事実、また言語の獲得が宗教の誕生に決定的な意義をもっているなどの指摘から始まっている点である。これらは評者(中野)が大学院時代に故・井門富二夫先生から教えられたアルノルト・ゲーレンの哲学的人間学、またその後の進化生物学などで展開された論であり、私も幾つか論考を書いている。関心のある方は以下を参照して欲しい。
1. 中野毅「人類進化と文化の形成 ─現代人間学考2─」『創価人間学論集』第4号、2011年3月、27-55頁。
https://soka.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=36531&item_no=1&page_id=13&block_id=68
2. 中野毅「進化生物学・認知科学の発展と宗教文化―人間学考3―」同前、第7号、2014年3月、1-22頁。
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3. 「学術動向:宗教の起源・再考―近年の進化生物学と脳科学の成果から―」2014.3.4『現代宗教2014』)(公財)国際宗教研究所、251-285頁。http://www.iisr.jp/journal/journal2014/
(1、2の論文を簡潔に整理したもの)
ゲーレンの主張は、人間以外の動物は特定の自然環境に身体的に適応しながら生きているが、人間は生物形態学から見れば、むしろ一定の自然環境に適応する上で必要な特殊器官(体毛や甲殻などの保護器官や牙などの攻撃器官等々)が欠けており、動物一般に見られる機械的な適応本能が欠けていると考えざるを得ない。その意味では人間はヘルダーの言うように本能の機能としては「欠陥生物」であるという。その代わりに、人間の頭脳は特殊化の極限に達しており、人間は頭脳を駆使して、未来を予見し、計画に基づいて現実を変化させる「行為」を遂行することができる。この「意識的な」行為によって、変化させられた、ないしは新たに作られた事実と、それに必要な手段との総体が「文化」である。人間は行為によって自然環境を変化させ、人為的に「形成された自然」圏、すなわち文化圏の中に生きるのである(ゲーレン, アルノルト, 1999年『人間学の探求』紀伊國屋書店、復刊版(1970年邦訳初版)、32, 36-38, 91,125頁)。
その本能的欠陥動物としての最たる特徴が、常に性欲をもようし性行為を行う事である。そのため人口も爆発的に増加し、いまや全地球を覆うまでになった。この旺盛な性欲をコントロールするため様々な婚姻規制や親族構造を構築していったといえる。
また「言語の発達」も人間文化の大きな特徴であり、言語によって情報や知識、智惠の伝達、蓄積、世代間の継承が可能になり、今日の複雑で巨大かつ多様な文化構造を生みだしていった。またその言語によって現実には実在しない神や仏などの超自然的なものをさす言語がうまれ、それが「言霊」などとして一人歩きしだすのも人間文化の特徴である。その意味で宗教は人間文化の典型的なものであり、人間の誕生とともに宗教も誕生したと言われる所以である。
本書では、新書の限度を越えるからだろうが、このような理論的背景については語っていない。しかしそれらを前提にしつつ、「性」のコントールを宗教が担ったという視点で書かれている。宗教の一つの機能として、それは十分に言える。ただ、それならば、「禁欲」を表だって強調しないイスラム教やユダヤ教、その他も何らかの性的規制を行っているはずであり、それらの分析はまだ十分とは言えない。
細かい点では疑問に思う点もいくつかある。例えば「イスラム教には、・・・独身の聖職者はまったく存在していません(97頁)」のような雑な既述も散見する。そもそもイスラム教には聖職者はいない。またイスラムが一般に性に開放的なので、過激な行動を促す方向に作用している(246頁)とは単純に言えない。また死海文書の研究からマリアによるイエス受胎は正式な結婚の前であったとか、イエスは毒殺されたのであり、磔刑は単なる見せしめであって、実際に生き返ったなどと実に興味深い研究をしたバーバラ・スィーリング『イエスのミステリー』(NHK出版、1993年)などに評者はいたく感心したが、これらイエス研究やキリスト教史についての先端に必ずしも触れていない点、学問的方法論が不明など疑問点や不満はあるが、それらは今後、専門家の諸氏からのコメントを待ちたいところではある。
しかし冒頭にも記したように、諸宗教に関する該博な知識をもとにして、「性と宗教」について新書版にまとめ上げた島田裕巳氏の学力筆力に改めて感銘した。普段は見逃していた問題点を気づかせてくださり、本書はまことに有益であった。
(この書評の全文pdfは下記からダウンロード出来ます。
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