市川裕さんの退官を祝して ― 2018年12月30日
2018年12月23日(日)に恒例の東京大学宗教学研究室同窓会「嘲風会」があり、今年度で退官する市川裕さんの最終講義と忘年会があった。昨年の鶴岡賀雄さんにつづき、今年も大きな仕事をした市川さんの退官は寂しい限りですが、長年の功績と友情に感謝して参加しました。
忘年会でOGOBの挨拶となった際、宗教学との関連を鋭く衝いた鶴岡さん、ユダヤ研究を一般にも分かりやすく語って宗教学の有用性を世に問うべきと熱く語った井上順孝さんは、さすがに東大宗教学を牽引してきたお二人として参加者をうならせる挨拶でした。
これで終わりかと思いきや、その後に私が指名されて慌ててふためき、結局まとまりのない話をすることになりました。申し訳なかったと思っています。実は忘年会で日本酒を飲んでいたのですが、最近はめっきり酒に弱くなり、挨拶した際も少々酔っていて自分でも話がまとまらなくなっていたことを自覚していました。まともな祝辞にならなかったことを反省し、ここに改めて記したいと思います。
1. 市川さんの長年にわたる研究は、専門外なので勝手な印象ではありますが、信仰の弁証とも言える神学的研究や聖書学・旧約学ではなく、またユダヤ教の思想研究そのものでもなく、独特の「ユダヤ学」ともいえる地平に達したと私も感嘆の思いで捉えています。長年に渡って発掘調査も行っていて、イエス時代のシナゴーグの発掘など素晴らしい発見もされたと伺いました。その意味では近年盛んな聖書考古学の手法も使ってはいますが、そこに止まることなく、中世から近代までのユダヤ人およびユダヤ教の足跡を手堅く追っています。それらの意味で、市川さんの研究は「ユダヤ教を信じる人々の実証的歴史学的研究」と言えないか、従ってそれは確かに「宗教史」でもあり、「宗教学」でもあり、ご本人が語った「・」のない「宗教学宗教史」なんだろうなと私なりに得心しています。
この独自の「ユダヤ学」が構築できたのは、鶴岡さんが指摘したように、宗教学という学的環境があったればこそなんだろうと思います。ご自身の研究の方法論的特徴や理論については、さらに自覚的に追究されていくことを期待しています。
2. 本講義の中で、留学後の学問的経歴を①比較宗教学的研究(ユダヤ教と仏教、特に法華経との比較など)、②一神教の世界を再構築する(西欧キリスト教中心の世界史におけるユダヤ教史の通年を打破する)、③目下の課題としてのユダヤ思想(家)研究、とまとめていました。①の仏教思想との比較も興味深いものですが、今回、特に関心をひいたのは②でした。西欧近代的発想、近代主義の脱却や脱構築が近年主張されていますが、その点に市川さんの研究は大きな一石を投じるものだと改めて思いました。
9/11同時多発テロのあと、イスラムが世界(史)の大きな軸として浮上し、それまでの近代史、思想史が西ヨーロッパ(西欧)近代的なバイアスに覆われていたことが暴露されました。イスラムから見た世界(史)の重要性が認識されたわけですが、さらにユダヤ人・ユダヤ教からみた世界(史)を知る必要があることを改めて痛感しました。西洋中世もユダヤ人が多数生活したポーランドなど東欧に注目すべきこと、「遅れた呪術の巣窟」と思われたユダヤ人社会から近代には多くの天才(Marx, Freud, Einstein, etc.)が誕生し、近代をむしろ牽引していったことなどです。私はさらに、イスラムの誕生にもユダヤ人・ユダヤ教は決定的な重要性をもっていると考えています。メッカから逃れたムハンマドが初めてイスラム共同体を形成するのはメディナにおいてですが、そこにディアスポラしていたユダヤ人共同体が支援したことがイスラム誕生の大きな要因でした。のちにユダヤと決別しますが、コーランを読んでも旧約聖書なくして成立しないことは明かです。
3. ユダヤから見た世界(史)について聴きながら考えていた時、市川さんにやってもらった創価大学での講義を想い出しました。私が勤めていた創価大学での全学共通総合講座「多文化共生と現代世界」などで、2003年度から2011年度まで「ユダヤ教と現代世界」と題して2週連続の講義を続けてもらったことがあります。2001年9月11日の同時多発テロが起こったこともあり、イスラムやキリスト教のこと、必然的にユダヤ教のことも広く学んでもらおうという企画でした。改めて、お礼申し上げます。私も極力受講しましたが、とても印象深かった話が蘇ってきました。
1492年の西洋での出来事です。この年はコロンブスがアメリカ大陸をめざして出航し、西インド諸島に到達した年として有名ですが、他にもグラナダが陥落してレコンキスタが終結した、つまりリベリア半島からイスラム勢力をキリスト教勢力が駆逐した年でもあります。さらには余り知られていないのですが、スペイン王国から「ユダヤ教徒追放令」が出された年でした。この追放令によって多くのユダヤ教徒がスペインを離れ、東欧からロシアへと逃れていき、13世紀以来、ユダヤ人の受け入れに寛容だったポーランドにさらに多くのユダヤ人が集住したのではないかと思います。
われわれはともすると、コロンブスの発見から西欧やアメリカのその後の発展を中心に考えてしまいますが、東欧に移住したユダヤ人たちが中世の歴史を動かし、近代への突破坑を開いた点を見逃しているのです。「西欧」近代中心の発想を、市川さんの研究は打破する大きな可能性を秘めていると再認識した次第です。
以上、挨拶で話したかった内容をまとめました。井上さんが主張したように、今後、ユダヤ教を軸とした「分かりやすい宗教学」を世間に発信して行かれることも大切でしょう。私としては、現代世界における焦眉の問題、例えばユダヤ人国家イスラエルが何故パレスチナ人と共存しようとしないのか、世界をどのように変えていきたいのかなど、最近のイスラエルの原理主義的傾向に説得力ある説明を展開することによって、宗教学的ユダヤ学の存在意義が認識されていくだろうとも思います。
新春早々に、『ユダヤ人とユダヤ教』(岩波新書)が公刊されるようですので、それを楽しみにしています。
ともあれ、多くの後進も育ち、東京大学での仕事が一段落したことに、ひとまずお疲れ様でしたと申し上げたい。今後も研究生活は続くと思いますが、健康に留意されつつ、益々のご活躍を心から祈る次第です。
忘年会でOGOBの挨拶となった際、宗教学との関連を鋭く衝いた鶴岡さん、ユダヤ研究を一般にも分かりやすく語って宗教学の有用性を世に問うべきと熱く語った井上順孝さんは、さすがに東大宗教学を牽引してきたお二人として参加者をうならせる挨拶でした。
これで終わりかと思いきや、その後に私が指名されて慌ててふためき、結局まとまりのない話をすることになりました。申し訳なかったと思っています。実は忘年会で日本酒を飲んでいたのですが、最近はめっきり酒に弱くなり、挨拶した際も少々酔っていて自分でも話がまとまらなくなっていたことを自覚していました。まともな祝辞にならなかったことを反省し、ここに改めて記したいと思います。
1. 市川さんの長年にわたる研究は、専門外なので勝手な印象ではありますが、信仰の弁証とも言える神学的研究や聖書学・旧約学ではなく、またユダヤ教の思想研究そのものでもなく、独特の「ユダヤ学」ともいえる地平に達したと私も感嘆の思いで捉えています。長年に渡って発掘調査も行っていて、イエス時代のシナゴーグの発掘など素晴らしい発見もされたと伺いました。その意味では近年盛んな聖書考古学の手法も使ってはいますが、そこに止まることなく、中世から近代までのユダヤ人およびユダヤ教の足跡を手堅く追っています。それらの意味で、市川さんの研究は「ユダヤ教を信じる人々の実証的歴史学的研究」と言えないか、従ってそれは確かに「宗教史」でもあり、「宗教学」でもあり、ご本人が語った「・」のない「宗教学宗教史」なんだろうなと私なりに得心しています。
この独自の「ユダヤ学」が構築できたのは、鶴岡さんが指摘したように、宗教学という学的環境があったればこそなんだろうと思います。ご自身の研究の方法論的特徴や理論については、さらに自覚的に追究されていくことを期待しています。
2. 本講義の中で、留学後の学問的経歴を①比較宗教学的研究(ユダヤ教と仏教、特に法華経との比較など)、②一神教の世界を再構築する(西欧キリスト教中心の世界史におけるユダヤ教史の通年を打破する)、③目下の課題としてのユダヤ思想(家)研究、とまとめていました。①の仏教思想との比較も興味深いものですが、今回、特に関心をひいたのは②でした。西欧近代的発想、近代主義の脱却や脱構築が近年主張されていますが、その点に市川さんの研究は大きな一石を投じるものだと改めて思いました。
9/11同時多発テロのあと、イスラムが世界(史)の大きな軸として浮上し、それまでの近代史、思想史が西ヨーロッパ(西欧)近代的なバイアスに覆われていたことが暴露されました。イスラムから見た世界(史)の重要性が認識されたわけですが、さらにユダヤ人・ユダヤ教からみた世界(史)を知る必要があることを改めて痛感しました。西洋中世もユダヤ人が多数生活したポーランドなど東欧に注目すべきこと、「遅れた呪術の巣窟」と思われたユダヤ人社会から近代には多くの天才(Marx, Freud, Einstein, etc.)が誕生し、近代をむしろ牽引していったことなどです。私はさらに、イスラムの誕生にもユダヤ人・ユダヤ教は決定的な重要性をもっていると考えています。メッカから逃れたムハンマドが初めてイスラム共同体を形成するのはメディナにおいてですが、そこにディアスポラしていたユダヤ人共同体が支援したことがイスラム誕生の大きな要因でした。のちにユダヤと決別しますが、コーランを読んでも旧約聖書なくして成立しないことは明かです。
3. ユダヤから見た世界(史)について聴きながら考えていた時、市川さんにやってもらった創価大学での講義を想い出しました。私が勤めていた創価大学での全学共通総合講座「多文化共生と現代世界」などで、2003年度から2011年度まで「ユダヤ教と現代世界」と題して2週連続の講義を続けてもらったことがあります。2001年9月11日の同時多発テロが起こったこともあり、イスラムやキリスト教のこと、必然的にユダヤ教のことも広く学んでもらおうという企画でした。改めて、お礼申し上げます。私も極力受講しましたが、とても印象深かった話が蘇ってきました。
1492年の西洋での出来事です。この年はコロンブスがアメリカ大陸をめざして出航し、西インド諸島に到達した年として有名ですが、他にもグラナダが陥落してレコンキスタが終結した、つまりリベリア半島からイスラム勢力をキリスト教勢力が駆逐した年でもあります。さらには余り知られていないのですが、スペイン王国から「ユダヤ教徒追放令」が出された年でした。この追放令によって多くのユダヤ教徒がスペインを離れ、東欧からロシアへと逃れていき、13世紀以来、ユダヤ人の受け入れに寛容だったポーランドにさらに多くのユダヤ人が集住したのではないかと思います。
われわれはともすると、コロンブスの発見から西欧やアメリカのその後の発展を中心に考えてしまいますが、東欧に移住したユダヤ人たちが中世の歴史を動かし、近代への突破坑を開いた点を見逃しているのです。「西欧」近代中心の発想を、市川さんの研究は打破する大きな可能性を秘めていると再認識した次第です。
以上、挨拶で話したかった内容をまとめました。井上さんが主張したように、今後、ユダヤ教を軸とした「分かりやすい宗教学」を世間に発信して行かれることも大切でしょう。私としては、現代世界における焦眉の問題、例えばユダヤ人国家イスラエルが何故パレスチナ人と共存しようとしないのか、世界をどのように変えていきたいのかなど、最近のイスラエルの原理主義的傾向に説得力ある説明を展開することによって、宗教学的ユダヤ学の存在意義が認識されていくだろうとも思います。
新春早々に、『ユダヤ人とユダヤ教』(岩波新書)が公刊されるようですので、それを楽しみにしています。
ともあれ、多くの後進も育ち、東京大学での仕事が一段落したことに、ひとまずお疲れ様でしたと申し上げたい。今後も研究生活は続くと思いますが、健康に留意されつつ、益々のご活躍を心から祈る次第です。
クロアチア・ザグレブ 第28回ISSR/SISR(国際宗教社会学会)大会の報告(2006年4月23日掲載) ― 2018年06月17日
第28回ISSR/SISR(国際宗教社会学会)ザグレブ大会の報告(2006年4月23日投稿)
Religion and Politics in the challenging boundaries of the Eastern and Central Europe: From the 28th Conference of the ISSR held in Croatia, July 2005.
Tsuyoshi Nakano
本稿は2006年4月23日に下記のweb siteに投稿したものです。記録のために、本ブログに転載します。画像や図はうまく転載できていないので、下記を覗いてみてください。
http://glocal.seesaa.net/article/16956065.html
1.はじめに
昨2005年7月18日から22日にかけて、バルカン半島の付け根に位置するクロアチア共和国の首都ザグレブで、国際宗教社会学会第28回大会(XXVIIIth Conference of the International Society for the Sociology of Religion)が開催された(以下、ISSRと略記)。会場は、ザグレブ大学機械工学・造船学部の数棟を使って行われたが、学部長室が船長室を模した楕円形であったり、構内に航空機のエンジンが置かれていたりと、クロアチアが古くから中東欧における造船や工学の中心地であることを思いおこさせるキャンパスであった。
全参加者数は282名と必ずしも多くはなかったが、中東欧の若い研究者が多数、しかも初めて参加し、全体として活性化した印象であった。なお遠方にもかかわらず日本人参加者は以下の9名にのぼった。立田ゆきえ(ハーバード大学大学院)、嶋田義仁(名古屋大学)、奥山倫明(南山大学)、佐々充昭(立命館大学)、藤野陽平(慶応大学大学院)、弓山達也(大正大学)、樫尾直樹(慶応大学)、田島忠篤(天使大学)、中野毅(創価大学)。
今大会の総合テーマはReligion and Society: Challenging Boundaries である。グローバル化が進展する現代世界において宗教的領域と非宗教的領域との境界が再構築される過程にあるとの基本的認識から、このテーマが掲げられたと考えられる。しかし実際の議論は、決して抽象的なものではなく、中東欧諸国からの研究者によって、旧社会主義圏の境界が崩壊し再構築されていく過程で遭遇している、深刻で重要なテーマが多数論じられていた。
実は、これらバルカン諸国をめぐる宗教と政治、ナショナリズムの展開については、本「宗教と社会」学会の第二回大会(1994年)以来、個人的にも大変興味をもっていた。その大会で、シンポジウム「宗教と民族・ナショナリズム」を企画し、その成果を『宗教とナショナリズム』(世界思想社、1997年)として刊行したが、その中で国立民族学博物館の新免光比呂氏にボスニア・ヘルツェゴビナを事例に報告していただき、大いに刺激を受けたからである。今回、その地に一歩踏み入れ、多くの発表や議論を聞き、この地域の歴史、政治的環境、民族と宗教について、多少なりとも実感をもって学ぶことができた。また今大会では、2004年秋に亡くなった終身名誉会長B.R.ウィルソン博士の追悼セッションももたれた。何らかの追悼と感謝の意を表したいと思い、参加した。本稿は、きちんと整った国際学会参加報告というより、筆者の関心に即した旅日記的な内容になることをお許しいただきたい。
2.クロアチアと日本
今回の大会における大きな特徴は、開催地がクロアチア共和国で行われたこと自体にある。まず余談からで恐縮であるが、クロアチアと聞いて、すぐに合点の行く方は、よほどのサッカーファンかK1ファンであろうか。今年のワールド・カップ・サッカーでの手強い対戦相手のひとつがクロアチアであることは知れ渡ってきたし、2月2日にNHK「世界遺産シリーズ」で「アドリア海の真珠-ドゥブログニク」が放映されて、いまや多くの日本人がクロアチアについての認識を深めてきたと思う。しかし恥ずかしながら筆者は、旧ユーゴの大統領チトーがクロアチア人であった云々程度の乏しい知識しかなく、出発前の勉強もする余裕もないまま現地に向かった。明け方の4時にパリ・シャルルドゴール空港に着き、クロアチア行きは午前10時発であった。パリまでのフライトは夜行便のようなもので空いており、おかげで伸び伸びとできたが、到着したドゴール空港はまだ暗く、寝静まって何も動いていない。クロアチア便のターミナルまでは歩くと30分以上かかるが、連絡のシャトルバスも8時頃からと聞いて、仕方なく歩き出した。途中、上海で工場を経営する日本人と中国で働いていてボスニアの故郷に帰る青年と仲良くなって、道連れができたのが幸いであった。
6時間待ってやっと離陸し、2時間もかからずにザグレブに降り立った。首都空港とはいえ、小さな地方空港のようなものであったが、軍用機が民間機のそばに並んでいたのが象徴的であった。ともあれ、ようやく現地に着いたが、やはり遠い国だというのが率直な第一印象であった。
しかし、ホテルに向かうタクシーに乗って、一変した。若い運転手が日本人だと知ると、「おれは宮本武蔵を知っている。おまえは『五輪の書』を読んだか。おれは何回も読んだぞ。」と聞いてきたのである。こんな場所で「ミヤモトムサシ」「ゴリンノショ」「ブシドウ」などの日本語を聞こうとは予期していなかったので、はじめは何の話かわからず当惑し、大いに驚いた。道中、いろいろ聞いていくと、日本の三浦和良がクロアチアのサッカー・リーグに所属して活躍したことを市民はよく知っており、異種格闘技のK-1グランプリにアントニオ猪木のように国会議員をしながら参加しているクロアチア選手もいて、日本や日本人に対して強い親近感を持っていたのである。それだけでなく、このような競技の背後にある精神文化にも高い関心を示し、『五輪の書』はクロアチア語に翻訳されて広く読まれており、「武士道」という言葉も若者の間に有名だという。クロアチアでは日本についての情報が遙かに豊富であり、親日的であった。
滞在したホテルは、Four Points Sheraton Panorama Hotelで、いまでこそシェラトン・グループのひとつになっているが、元は隣接した国立スポーツセンターのための宿泊施設であった。近所のレストランで田島さんと遅い夕食を食べたとき、どの皿も大盛りでたっぷりな料理だったが、それもスポーツ選手用のメニューだという。さらに日本人とわかると、閉店時間を過ぎているのにオーナーがわれわれを引き留めて日本に行った自慢話に花が咲き、キツーい地酒も振舞ってくれた。何でも日本との間でK1などの格闘技の選手の交流や獲得、大会の開催などをアレンジする興行師のような仕事をしているということであった。日本との間を頻繁に行き来している、大の親日家であった。
3.クロアチアの歴史とISSSR
本題にもどる。ISSRはクロアチアにとって、実はきわめて重要な意味を持っていた。ISSRがクロアチアで大会を開くのは二度目である。35年前の1971年、クロアチアはISSRの第9回大会を、アドリア海に面した美しい観光地オパティジャ(Opatija)で開催していた。当時、クロアチアは旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一員であった。この連邦がチトーひきいる反ナチ・パルチザン・共産軍の闘争によって成立し、最もリベラルな社会主義を標榜していたことは知られているが、それでも連邦誕生の間もない時期に、宗教の存在を容認し、その社会的機能や意義を論じる「宗教社会学」の国際会議を開催したことは、一大挑戦であったという。
その後の35年間も、クロアチアおよびバルカン諸国にとって決して平坦な道程でなかったことは、周知の通りである。そして1989年から始まったソビエト連邦および旧共産主義圏の崩壊と再編の中で、1961年6月に反連邦志向の強かったスロベニアが、9月にはクロアチアがいち早く独立を宣言し、それぞれ共和国を創設した。しかし、この連邦解体過程で独立を軍事的にも阻止しようとしたセルビア主体の連邦軍は、クロアチアとスロベニアの各地を攻撃し、爆撃や砲撃によって多数の死傷者がでた。首都ザグレブや30キロほど南西にあってセルビア人も多くすんでいたカールロヴァック(Karlovac)は爆撃され、最南端の海に浮かぶ真珠のような街・ドゥブロブニク(Dubrovnik)も大半が破壊されたという。このような中でカトリック教徒のクロアチア人、正教徒のセルビア人とムスリムのボスニア人などの民族対立が激化し、内戦状態となり、コソヴォの惨劇、NATOによるベオグラードなどへの空爆などが、1991―95年に起こったのである。
現在、クロアチアは治安も安定し、かつての美しい観光地としての雰囲気がほぼ回復している。しかし、内戦時の傷跡は一部でまだ生々しく残っており、特に人々の心に及ぼした悲惨な記憶と傷の深さは、いまだ癒されていない。ISSRの大会においても、プログラムにはエントリーしていたセルビア人やマケドニア人の土壇場キャンセルがめだったこと。また現地からの参加者も、内戦後の復興については率直に語ってくれても、内戦そのものにふれるような話題や発表は一切見あたらず、人々がまだ沈黙の中にいることであった。10年では、決して癒されることのない傷が、まだ、そこにあった。
また軍事攻撃の痕跡は、ザグレブ市内ではほとんど見られなかったが、地方都市や国境付近には爆撃を受けた痕跡と廃墟があり、さらに地雷や劣化ウラン弾も残っているという。筆者は、帰国する当日の早朝、カールロヴァックを訪れた。高速バスとタクシーで2時間ほどかかってやっと現地に着いた。クパ川とコロナ川にはさまれた町は、緑と水の豊かな、16世紀のルネッサンス風の城塞で囲まれた美しい町であった。しかし町中心部の銀行の壁にはまだ弾痕が残っており、爆弾の落ちた穴が残されていた。町はずれのトゥランジ(Turanj)村は最も激しく戦闘が行われた場所であるらしく、戦車や撃墜された航空機の残骸などが集められ、将来、「内戦博物館」を作る予定であるという。緑の川辺にたたずむ町随一のコロナ・ホテルは、10年を経た今も破壊されたままであった。
(ここに、元webには現地の写真を入れてあります。後日、転載)
このような背景の中で、第二回目のISSR大会がクロアチアで開催されたわけであるが、ローカル・コミティおよび支援したクロアチア社会学会のメンバーにとって、このような国際会議を独立国家のもとで再び開ける自由と力を獲得したことは、万感迫る想いであったに違いない。大会ハンドブックの序文から、それが伝わってくる。そして彼らは、この大会を旧共産圏諸国に宗教社会学をさらに広め、それらの新しい社会の再構築に役立てていきたいという、大いなる願望と期待をもって会議の運営に臨んでいた。
4.旧共産圏諸国の宗教と政治
ここで本大会での議論のいくつかを紹介したいが、その前に総合テーマ「宗教と社会:境界への挑戦」を掲げた大会全体の基調を概観するために、プレナリー・セッションと主催地によるローカル・セッションの一覧を記しておく。
プレナリー・セッションⅠ(7/19)
ジャン・ボベロ「ポスト近代と公的・私的領域の変化」
アレキサンダー・アガジャニアン「旧共産圏社会における宗教-プライヴァシーの探求と物語(伝統)の復興」
アンドレ・コルテン「恐怖と宗教-国家の暴力と私的暴力」
プレナリー・セッションⅡ(7/21)
アイリーン・バーカー「どこにラインをひくのか-プラトン、メアリー・ダグラス、新宗教」
サージャン・ヴルカン「予備的な挑戦-境界か国境か、それともフロンティアーか」
パトリック・ミシェル「開かれた空間と多元的アイデンティティー:宗教的信仰の現代的再結合」
中東欧セッション(7/20)
ミクロス・トムカ「従来の宗教社会学は東欧と西欧の発展の相違に対処できるか?」
イリーナ・ボロウィク「旧ソ連圏における共産主義の崩壊に直面する正教会」
ディンカ・マリノヴィッチ他「境界の内と外における宗教-クロアチアの場合」
このような問題提起のもとで、数多くのテーマセッションが組織され、論議されていった。すべては網羅できないが、目についた具体的なテーマセッションは、①フランスのライシテ原則への挑戦など、世俗化と政教分離原則の揺らぎに関する報告と論議、②宗教の政治への参加/介入がイスラムのみでなく、正教会などにも起こっている問題、③ポスト・コミュニスト諸国における資本主義化と宗教の復活に関する報告。④ムスリムのヨーロッパ移住の後、当該地域の生活に触れて、女性の地位の変化、教義の再解釈に関する報告。③地域の教会が地方自治体の活動領域である社会福祉(高齢者介護など)に積極的に関わり、成果をあげている北欧社会の報告、などである。
筆者は、上記の②③に関連するテーマセッション15((TST15 Between Law and Culture: Public Religion and Democracy in Post-Communist Societies)に主として参加したので、その発表を中心に、バルカン諸国における宗教と政治の問題をいくつか紹介しておきたい。
まず全体を俯瞰する上で有益だったのは、James R. Richardson ’Religion, Constitutional Courts, and Democracy in Former Communist Countries’ , およびMiklos Tomka ‘Is Conventional Sociology of Religion Apt to Deal with Differences between Eastern and Western European Development?’ であった。リチャードソンによると、旧共産圏諸国は解放された後、驚くほど一応に「代議制民主主義と立憲主義に基づく法による統治」を基本政体として国家を再建しようとしており、その憲法規定に「人権の尊重」「宗教的自由の重視」が広くうたわれている。半世紀以上にわたって宗教を否定するイデオロギーに支配されていた地域における、このような宗教重視の態度はなぜ生まれたのか。その第一の原因は、旧共産主義政権の崩壊に大きな役割を演じたのが宗教であったことである。具体的には第二バチカン公会議以降のカトリック教会、特に、ポーランド出身の前法王ヨハネ・パウロⅡの影響が大きかった。その結果、共産主義政体からの解放を求める動機に、宗教的なものが強くなったといえる。第二に、各国の具体的な民主主義のあり方を決定づける上で、それぞれの憲法裁判所が大きな役割を演じていたことをあげている。その判決によって、少数派の宗教運動も含めたきわめてリベラルな「信教の自由」原則を打ちだすか、特定の宗教的伝統をナショナル・アイデンティティーの柱としようとするかなどの相違も生まれたが、各国の憲法裁判所は、おおむね宗教または宗教団体が公的に適切な地位を与えられるべきであるという判断をだしているという。
ハンガリーのトムカやクロアチアのマリノヴィッチほかの報告から、西ヨーロッパで始まった「ヨーロッパ価値観調査」(EVS)と同様の綿密な意識調査を、中東欧においても各国の社会学者や政府機関が積極的行っていることが明らかとなった。それに基づく詳細な発表が多く、説得力もあった。トムカによると、①ヨーロッパ全体の価値観調査の結果を比較すると、東欧諸国の方が「宗教的信仰」が高くなっている。②東欧では、20代と60代に宗教心が高くなっている。③政府などの公的機関と教会の、どちらを信頼するかという問いには、教会をより高く信頼するのが、ルーマニア、ポーランド、イタリア、スロベニア、ウクライナ、クロアチア、ロシアなどで、政府機関の方が高いのが、セルビアやブルガリアなどであるという、興味深い結果がみられるという。
マリノヴィッチほかの報告(Dinka Marinovic & Sinisa Zrinscak, ‘Religion within and beyond Border: the Case of Croatia’. Ankica Morinovic, ‘Catholic Church in Croatia’)によると、旧共産圏諸国において伝統的諸教会が急速な勢いで復興しており、それぞれの国民的または民族的アイデンティティーの再構築の中心的要素として、伝統宗教が大きな影響力を発揮している。クロアチアにおいても、1960年代からは大幅な世俗化(secularization)を経験したが、宗教を「不自然に」抑圧する体制から自由になった後の90年代以降に、すなわち共産主義連邦から離脱して独立の民主主義国家になった後、宗教復興(revitalization)を経験している。
90年代半ばには、クロアチアではカトリック教徒のクロアチア人が80%近くを占め、正教会教徒のセルビア人が12%であると記されてきたが、今回、紹介されたCensus2001によると、カトリック教徒84%で、正教会全体で4.4%と激減していた。マリノヴィッチらの調査では、さらに、「熱心な信仰者(firm believers)、および宗教心が高い(religious)」との回答率が41%(1989年)から78%(2004年)に急増し、「神の存在を信じる」は15%から40%に、日曜礼拝に出席する率も45-50%に増加したという。ただ、クロアチア国内を詳細に検討すると地域によって格差がある。以下の表は、文中に挿入された調査結果”Social and Religious Changes”(The Institute for Social Research in Zagreb, 2004)の一部である。
(以下の数値は一覧表になっているが、ここではうまく転載できていないので、元のweb siteを当面参照してください)
Religious selfidentification in macro-regions in Croatia in 2004 (%)
Macro-region
Firm Believers
Religious
Total 1+2
Insecure and Indifferent
Not religious & opposed to religion
East Croatia
51,9
29,0
80,9
12,7
6,3
Dalmatia
50,1
36,0
86,1
9,1
4,8
Central Croatia
37,0
40,1
77,1
14,4
8,5
Istria and Primorje
22,8
43,9
66,7
16,3
17,0
χ2 = 106,53 p‹0,01 c=0,21
Religious selfidentification in four region in Croatia 2004 (in %)
Regions
Firm believers
Religious
Total 1+2
Insecure and indifferent
Not religious and opposed to religion
Dubrovnik County
67,8
28,8
96,6
3,4
0
Vukovar County
69,7
18,2
87,9
11,1
0
Sisak County
30,4
39,1
69,5
20,6
9,8
Karlovac County
32,9
43,8
76,7
16,4
6,9
χ2=53,90 p‹0,01 c= 0,38
セルビアに接する東クロアチアと国土の南端にあるドゥブロクニクを含むダルマチア地域は宗教心が強く、イタリアやスロベニアに近いイストリア地方は、弱いことがわかる。下段からは、セルビアによる攻撃の激しかったドゥブロクニクは宗教心がきわめて高く、同じく攻撃を受けてもカールロヴァックはそれほどでもないことがわかる。ディンカによると、その理由はカールロヴァックには今でもセルビア人が多く戻ってきて住んでおり、正教会教徒の彼らは「信仰心」が高くはないからであるという。
こうした地域差や民族・宗教差というものを詳細に検討すると、独立国家となった旧ユーゴスラビア諸国の国境画定の複雑さと困難さを表しており、クロアチアはカトリック国、セルビアは正教会という単純なとらえ方の無意味さを知ることができた。そして同一国内で共存している場合にこそ、カトリックはクロアチア人の、正教会はセルビア人の、イスラムはムスリムの民族的かつ個人的アイデンティティーの核として強く機能していることがわかる。
しかし、復活した伝統教会は単に文化的なアイデンティティーの核になっているだけではない。政治や国家への関与の増大も、また共通にみられる現象である。クロアチアでも、独立国家における政治がクロアチア人の利益を優先する民族中心主義に傾斜していくのは、ある意味で当然であり、それをディンカは“a prevailing tendency of ethnification of the politics and politization of ethnicity”と呼んでいるが、その動きは実は”politization of religion, especially of Catholicism, and religionization of politics”を通して顕在化しているという。つまりカトリック教会が政治的にも発言力を強めており、政治的または国家的権益を確保したいという傾向が見られるという。しかし、国民の70%以上は国家が宗教への関与を禁止することを望んでいるのと同様に、聖職者の国家や政治への関与を望ましくないと考えているという。
この政治への関与については、特にセルビアからの数少ない参加者の一人グリシク・ジャスミナの報告(Glisic Jasmina), ‘The Serbian Orthodox Church following the democratic changes in Serbia of October5, 2000’)が、きわめて衝撃的であった。それによると2000年5月のミロシェビッチ政権の崩壊後もセルビア正教会はセルビアの政界への影響力を維持し続け、移行期にあるセルビア社会の民族ナショナリズムethno-nationalism)の柱であり、ナショナル・アイデンティティーの基礎となっている。そればかりか憲法で規定された政教分離原則をやぶる様々な動向が明らかにされた。その一つは、政治的社会的権力の配分へ介入し、社会主義化の過程で失われた教会財産の返還を政府に求め、また各種選挙を通じて影響力の拡大をめざし、政府の諸施策への監視や批判を強めている。第二に、公教育への介入である。セルビア正教会の神学を基本とした宗教教育を公立学校で行うことを政府に認めさせ、2001年から開始された。しかし、その実施は法律でなく政府の条例によって命じられて始まったのであり、議会での十分な討論もなあされておらず、多くの国民も納得していないという。またこの条例では同時に、1952年にチトーによって廃止された国立ベルグラード大学の神学部を復活させたという。
第三には、軍と正教会との緊密な接近である。やはり2000年秋以降、軍上層部と教会指導部との相互訪問が頻繁に行われ、結果的に正教会の司祭が軍に公式に導入された。また軍学校の生徒と若い下士官らがイコンや十字架を掲げて教会に行軍し、将校と兵士の洗礼式が教会で行われるようになった。このような動きを支える論理は、「法の下では、すべての宗教は平等である。しかし、われわれの民族の文化と歴史の前では、それは平等ではない。セルビアの国民文化形成、民族の本質と国家の質を高める上で、セルビア正教会の貢献は比類ないものである」という論理であった。発表者は、これらの動向がめざす最終的な目標は、正教会の国教化であり、世俗国家の解体であると、強い危機感を表明していた。
そのほか、Maria Serafimova, ‘Religion and Politics: The Case of the Bulgarian Orthodox Church.’ Anton K Berishaj, ‘The Level of Religiousness in KOSOVA.’ Gavril Flora, Georgina Szilagyi, Victor Roundmetof, ‘Religion and national identity in post-communitst Romania’. Michaela Moravčíková, Silvia Jozefčiaková, ‘Clara Pacta - Boni Amici? Religion, Law and Democracy in Holy See - Slovak Relations’ など貴重で、刺激的な報告が多数あった。
以上、中東欧諸国における宗教と政治、宗教と国家の複雑で困難な展開過程を垣間見てきたが、それほど広くないバルカン地域における民族、国家、政治と宗教とが、まさに激しく自己主張し合いながら、新しい国家・社会の建設途上にあるダイナミックなエネルギーを感じることもできた。そして、このような激しい社会変動・宗教変動の場においてこそ、宗教学や宗教社会学も蘇生していくのかと痛感した次第である。
5.日本人参加者とスピリチュアリティ・チームの奮戦
今回は日本人が9名参加したが、皆さんがそれぞれ各自のセッションで大いに気を吐いていたことはいうまでもない。初参加の嶋田さんは流暢なフランス語で人類学的発表を行って好評であったし、奥山さんの人脈の広さには改めて驚き、おかげでブルガリアやチェコの友人が多くできた。こうした中で、うれしい驚きは立田ゆきえさんの発表 (TATTA, Yukie, ‘Constructing Multi- Religious Bosnian Identity: Historical Context of Multi- Religious Bosnian Nationalism’) であった。彼女は東京大学でイスラムを学び、現在ハーバード大学大学院で研究を続けている。文献学的研究だけでなく、フィールドも一つ持つようにとの指導を受けて、どうせなら紛争地域のボスニアをフィールドにしようということで、単身、現地に乗り込み、サラエボで親しくなったおばあさんの家を拠点としながら調査を続けているという。日本外務省では旅行自粛地帯としている危険地帯である。報告によると、ボスニアはボスニア人ムスリムが40%、セルビア人正教徒30%、クロアチア人カトリック教徒が20%と、民族的宗教的に3つに完全に分れており、そのために現在でも対立紛争が絶えないという。その上で、彼女は唯一の障害は宗教の相違であるとの認識から、日本の神仏習合の宗教文化をモデルに三つの宗教的伝統が共存しうる文化モデルを提供して、現地の日常化している対立に終止符を打たせたいという、熱烈な意欲を持って語っていた。報告そのものはやや実証性がたりなかったり、日本のモデルを短絡的に応用しすぎる嫌いはあったが、MacのノートPCをデスクに広げ、小柄な体ながら、大きな身振り手振りで話す様子は、まさに新しい世代の登場だ!と感嘆した次第である。
立田さんと筆者との間の世代が、樫尾さんや弓山さんたちになるでしょう。彼ら「スピリチュアリティ・グループ」は、ここ数回のISSRに参加し、独自のセッションを毎回セットして頑張っている。今回は、会議前半にはザグレブ市内や南端のドゥブロクニクに見学調査にいき、セッションもこれまでにない成功を収めた。以下、弓山さんのレポートをもとに紹介したい。
樫尾直樹のコーディネートによるテーマセッション「東アジアの霊性」(Spirituality and Society in Contemporary East Asia)は学会最終日の7月22日に開催された。発題者は司会も兼ねる樫尾直樹(慶應義塾大学)と弓山達也(大正大学)・佐々充昭(立命館大学)・藤野陽平(慶應義塾大学大学院)で、ディスカッサントはジャン=ピエール・ベルトン(フランス国立社会科学高等研究院・同科学研究センター)。聴衆はのべ15名ほど(日本人発題者中心の部会にしては珍しく日本人聴衆は1人)であったが、全体高齢化社会の中でますます霊性の問題は重要だというコメントや、spiritualityの翻訳上の問題などに関する質問が寄せられ、好意的かつ活発な議論が展開された。以下、報告ごとにその要旨を記す。なお報告者の関連論文は樫尾直樹編『アジア遊学 84号 アジアのスピリチュアリティ』(2006年2月)に収録されている。
樫尾報告「課題としてのスピリチュアリティ研究―現代日本の事例―」(Spirituality Studies as our common task: a Case of Contemporary Japan)は、全体の問題提起も含むものであり、現代日本、とりわけ90年代以降、〈スピリチュアリティ〉(=霊性)が、広義の「健康」、つまり身体的健康だけではなく一般に精神的(心理的)、社会的健康を含みこんだ「健康」に関わる社会文化的諸領域で注目されてきていることが説明された。その社会文化的諸領域とは、たとえば、宗教はもちろんのこと、医療、看護介護、臨床心理・セラピー、生命倫理、食・エコロジー、教育、死の教育、職場、福祉、自助団体、大衆文化(マンガ、映画など)、癒し・ヒーリング、遍路などのさまざまな場であり、そこで〈スピリチュアリティ〉という言葉は積極的に使われるようになってきているという。
そこで樫尾報告では、上記の社会文化的諸領域のいくつかにおける〈スピリチュアリティ〉概念を検討し、その諸特徴を指摘することによって、現代日本の〈スピリチュアリティ〉の位相の一端とスピリチュアリティ研究の課題を明らかにすることを目指した。結論として、現代日本におけるスピリチュアリティの特徴は超越性、他者性、内面性、実践性の四つにまとめることができ、より具体的には、スピリチュアリティとは、個を超えた価値、生の実存的意味、大いなる存在に生かされている、あるいはそれとつながっているという感覚の三要素から構成されていることを明らかにした。
弓山報告「霊性と資格―日本におけるスピリチュアルケア・ワーカー養成について―」(Spirituality and Qualification: Spiritual Care Work in Japan)は、カトリック系の臨床パストラルケア教育センターと高野山真言宗のスピリチュアルケア・ワーカー養成講習会を取り上げて、制度の俎上に乗りづらいとされる霊性が、教室・病院といった制度の中で教えられ、伝えられる場面での諸特徴を指摘するものであった。それによれば2つの養成システムでは、宗教伝統の差こそあれ、教団から切り離された個人の価値観が強調される点、具体的には宗教用語を使わずに宗教性を伝える点などが等しく観察されるという。こうしたことから弓山報告では、スピリチュアルケアの現場における霊性には、(1)それまで指摘されてきた非制度的かつ個人的性格、(2)教団組織や宗教用語から解放される非定型的性格、(3)それでいて結果として教団を活性化し、宗教者の宗教性を育む宗教の根幹的な性格が認められると結論づけた。
佐々報告「現代韓国における気修練団体とスピリチュアリティ―グローバル化の中で再編されるアジア的「気」言説―」(The Ki Training Groups and Spirituality in Contemporary South Korea)は、丹田呼吸を中心とする伝統的な気修練法を普及する団体が数多く登場している韓国の現状に関するものであり、韓国における最大規模の気修練団体である「丹ワールド」の事例分析を通じて、現代韓国における「霊性(スピリチュアリティ)運動」の特色について考察を試みるものであった。
藤野報告「台湾キリスト教における霊的な癒し―真耶穌教会の事例から―」(Spiritual Health in Taiwan: from a case of True Jesus Church)は、台湾の真耶穌教会というキリスト教会の信者による癒しに関する体験談を分析することで、台湾のキリスト教において健康にはどのような原因があるとみなされているかを考察するものである。報告では病いの研究の一環として広く行われてきた災因論に比べ、取り上げられにくかった福因論を健康観の研究として行っていくべきであるという意図が説明された。その際のキー概念としてキリスト教から引き継がれてきた神と人との関わりという概念としてのスピリットと、1970年代のニューエイジムーブメントなどから引き継がれている何か自己を越えたものを介在した繋がりとしてのスピリチュアリティを分けてとりあげられた。結論としては、当教会信者の癒しの体験談には神と人との繋がりとしての聖霊の介在だけではなく、祈りあうことによる人と人の繋がりが介在していることが明らかになった。
6.ウィルソン博士追悼セッション
こちらは、ウィルソン先生の追悼ページhttp://wilson.seesaa.net/をご覧下さい。
7.今後の課題
長くなったが、全体会議でも報告されたISSRの課題を記して終えたい。
パチェ会長の全体会議での挨拶において、会員の高齢化、膠着化が進んでいる。その打開策として、ア)若手の研究者の積極的な参加、イ)非西欧社会の会員の積極的参加を促すことが必要、と訴えていた。一時は非西洋世界への呼びかけが活発に行われ、それへの応答として柳川・安斎 伸先生たちが積極的に参加していったのである。しかし筆者の印象として、特にこの10年ほどは、やはり西欧中心の学会だなという印象がむしろ強く感じたことが多かった。事実、日本以外のアジアからの参加者はさほど増えていない。今回は中東欧世界へと広がったが、それでも、そこは「彼らの」世界の一部なのである。今後、本気で非西洋世界へ広がりを持たせるつもりなのか、また広がっていった方がよいのか、筆者としては疑問である。むしろ、ISSRは西欧中心の学会であることを明確にした方がよいと思う。日本やアジアの研究者はISSRのアジア地区組織というより、アジア宗教学会のようなものをつくり、こちらも独自性を鮮明にしながら、西欧中心の学会と定期的に交流するような形を考えてみたいと思っている。
ISSRの開催時期も問題である。7月中旬は、日本の多くの大学にとって、期末の雑務でまだまだ忙しい時期である。さらに、この時期のヨーロッパは、近年、温暖化のためであろうか暑すぎる。前回のトリノも猛暑であったし、今回も暑かったり、大雨に降られたりした。西欧の学者にとっては、学会の後、ヴァカンスをとって家族旅行をするには都合がよいのだろうが、リチャードソンやバーカー、ベックフォードたちは終了後、家族を呼んでアドリア海の真珠ドゥブロクニクで休暇を取ったという。しかし、40度以上の暑さに参ったとのメールが入ってきた。いろいろな意味で、再検討を要するものが増えてきたようである。
なお次回の開催は、2007年8月初旬にドイツ・ライプツィッヒ大学で行われる。また、今学会のクロアチアの関連写真などの詳細、またウィルソン先生の追悼ページをブログで公開しているので、訪問していただければ幸いです。
http://wilson.seesaa.net/ 完
Religion and Politics in the challenging boundaries of the Eastern and Central Europe: From the 28th Conference of the ISSR held in Croatia, July 2005.
Tsuyoshi Nakano
本稿は2006年4月23日に下記のweb siteに投稿したものです。記録のために、本ブログに転載します。画像や図はうまく転載できていないので、下記を覗いてみてください。
http://glocal.seesaa.net/article/16956065.html
1.はじめに
昨2005年7月18日から22日にかけて、バルカン半島の付け根に位置するクロアチア共和国の首都ザグレブで、国際宗教社会学会第28回大会(XXVIIIth Conference of the International Society for the Sociology of Religion)が開催された(以下、ISSRと略記)。会場は、ザグレブ大学機械工学・造船学部の数棟を使って行われたが、学部長室が船長室を模した楕円形であったり、構内に航空機のエンジンが置かれていたりと、クロアチアが古くから中東欧における造船や工学の中心地であることを思いおこさせるキャンパスであった。
全参加者数は282名と必ずしも多くはなかったが、中東欧の若い研究者が多数、しかも初めて参加し、全体として活性化した印象であった。なお遠方にもかかわらず日本人参加者は以下の9名にのぼった。立田ゆきえ(ハーバード大学大学院)、嶋田義仁(名古屋大学)、奥山倫明(南山大学)、佐々充昭(立命館大学)、藤野陽平(慶応大学大学院)、弓山達也(大正大学)、樫尾直樹(慶応大学)、田島忠篤(天使大学)、中野毅(創価大学)。
今大会の総合テーマはReligion and Society: Challenging Boundaries である。グローバル化が進展する現代世界において宗教的領域と非宗教的領域との境界が再構築される過程にあるとの基本的認識から、このテーマが掲げられたと考えられる。しかし実際の議論は、決して抽象的なものではなく、中東欧諸国からの研究者によって、旧社会主義圏の境界が崩壊し再構築されていく過程で遭遇している、深刻で重要なテーマが多数論じられていた。
実は、これらバルカン諸国をめぐる宗教と政治、ナショナリズムの展開については、本「宗教と社会」学会の第二回大会(1994年)以来、個人的にも大変興味をもっていた。その大会で、シンポジウム「宗教と民族・ナショナリズム」を企画し、その成果を『宗教とナショナリズム』(世界思想社、1997年)として刊行したが、その中で国立民族学博物館の新免光比呂氏にボスニア・ヘルツェゴビナを事例に報告していただき、大いに刺激を受けたからである。今回、その地に一歩踏み入れ、多くの発表や議論を聞き、この地域の歴史、政治的環境、民族と宗教について、多少なりとも実感をもって学ぶことができた。また今大会では、2004年秋に亡くなった終身名誉会長B.R.ウィルソン博士の追悼セッションももたれた。何らかの追悼と感謝の意を表したいと思い、参加した。本稿は、きちんと整った国際学会参加報告というより、筆者の関心に即した旅日記的な内容になることをお許しいただきたい。
2.クロアチアと日本
今回の大会における大きな特徴は、開催地がクロアチア共和国で行われたこと自体にある。まず余談からで恐縮であるが、クロアチアと聞いて、すぐに合点の行く方は、よほどのサッカーファンかK1ファンであろうか。今年のワールド・カップ・サッカーでの手強い対戦相手のひとつがクロアチアであることは知れ渡ってきたし、2月2日にNHK「世界遺産シリーズ」で「アドリア海の真珠-ドゥブログニク」が放映されて、いまや多くの日本人がクロアチアについての認識を深めてきたと思う。しかし恥ずかしながら筆者は、旧ユーゴの大統領チトーがクロアチア人であった云々程度の乏しい知識しかなく、出発前の勉強もする余裕もないまま現地に向かった。明け方の4時にパリ・シャルルドゴール空港に着き、クロアチア行きは午前10時発であった。パリまでのフライトは夜行便のようなもので空いており、おかげで伸び伸びとできたが、到着したドゴール空港はまだ暗く、寝静まって何も動いていない。クロアチア便のターミナルまでは歩くと30分以上かかるが、連絡のシャトルバスも8時頃からと聞いて、仕方なく歩き出した。途中、上海で工場を経営する日本人と中国で働いていてボスニアの故郷に帰る青年と仲良くなって、道連れができたのが幸いであった。
6時間待ってやっと離陸し、2時間もかからずにザグレブに降り立った。首都空港とはいえ、小さな地方空港のようなものであったが、軍用機が民間機のそばに並んでいたのが象徴的であった。ともあれ、ようやく現地に着いたが、やはり遠い国だというのが率直な第一印象であった。
しかし、ホテルに向かうタクシーに乗って、一変した。若い運転手が日本人だと知ると、「おれは宮本武蔵を知っている。おまえは『五輪の書』を読んだか。おれは何回も読んだぞ。」と聞いてきたのである。こんな場所で「ミヤモトムサシ」「ゴリンノショ」「ブシドウ」などの日本語を聞こうとは予期していなかったので、はじめは何の話かわからず当惑し、大いに驚いた。道中、いろいろ聞いていくと、日本の三浦和良がクロアチアのサッカー・リーグに所属して活躍したことを市民はよく知っており、異種格闘技のK-1グランプリにアントニオ猪木のように国会議員をしながら参加しているクロアチア選手もいて、日本や日本人に対して強い親近感を持っていたのである。それだけでなく、このような競技の背後にある精神文化にも高い関心を示し、『五輪の書』はクロアチア語に翻訳されて広く読まれており、「武士道」という言葉も若者の間に有名だという。クロアチアでは日本についての情報が遙かに豊富であり、親日的であった。
滞在したホテルは、Four Points Sheraton Panorama Hotelで、いまでこそシェラトン・グループのひとつになっているが、元は隣接した国立スポーツセンターのための宿泊施設であった。近所のレストランで田島さんと遅い夕食を食べたとき、どの皿も大盛りでたっぷりな料理だったが、それもスポーツ選手用のメニューだという。さらに日本人とわかると、閉店時間を過ぎているのにオーナーがわれわれを引き留めて日本に行った自慢話に花が咲き、キツーい地酒も振舞ってくれた。何でも日本との間でK1などの格闘技の選手の交流や獲得、大会の開催などをアレンジする興行師のような仕事をしているということであった。日本との間を頻繁に行き来している、大の親日家であった。
3.クロアチアの歴史とISSSR
本題にもどる。ISSRはクロアチアにとって、実はきわめて重要な意味を持っていた。ISSRがクロアチアで大会を開くのは二度目である。35年前の1971年、クロアチアはISSRの第9回大会を、アドリア海に面した美しい観光地オパティジャ(Opatija)で開催していた。当時、クロアチアは旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一員であった。この連邦がチトーひきいる反ナチ・パルチザン・共産軍の闘争によって成立し、最もリベラルな社会主義を標榜していたことは知られているが、それでも連邦誕生の間もない時期に、宗教の存在を容認し、その社会的機能や意義を論じる「宗教社会学」の国際会議を開催したことは、一大挑戦であったという。
その後の35年間も、クロアチアおよびバルカン諸国にとって決して平坦な道程でなかったことは、周知の通りである。そして1989年から始まったソビエト連邦および旧共産主義圏の崩壊と再編の中で、1961年6月に反連邦志向の強かったスロベニアが、9月にはクロアチアがいち早く独立を宣言し、それぞれ共和国を創設した。しかし、この連邦解体過程で独立を軍事的にも阻止しようとしたセルビア主体の連邦軍は、クロアチアとスロベニアの各地を攻撃し、爆撃や砲撃によって多数の死傷者がでた。首都ザグレブや30キロほど南西にあってセルビア人も多くすんでいたカールロヴァック(Karlovac)は爆撃され、最南端の海に浮かぶ真珠のような街・ドゥブロブニク(Dubrovnik)も大半が破壊されたという。このような中でカトリック教徒のクロアチア人、正教徒のセルビア人とムスリムのボスニア人などの民族対立が激化し、内戦状態となり、コソヴォの惨劇、NATOによるベオグラードなどへの空爆などが、1991―95年に起こったのである。
現在、クロアチアは治安も安定し、かつての美しい観光地としての雰囲気がほぼ回復している。しかし、内戦時の傷跡は一部でまだ生々しく残っており、特に人々の心に及ぼした悲惨な記憶と傷の深さは、いまだ癒されていない。ISSRの大会においても、プログラムにはエントリーしていたセルビア人やマケドニア人の土壇場キャンセルがめだったこと。また現地からの参加者も、内戦後の復興については率直に語ってくれても、内戦そのものにふれるような話題や発表は一切見あたらず、人々がまだ沈黙の中にいることであった。10年では、決して癒されることのない傷が、まだ、そこにあった。
また軍事攻撃の痕跡は、ザグレブ市内ではほとんど見られなかったが、地方都市や国境付近には爆撃を受けた痕跡と廃墟があり、さらに地雷や劣化ウラン弾も残っているという。筆者は、帰国する当日の早朝、カールロヴァックを訪れた。高速バスとタクシーで2時間ほどかかってやっと現地に着いた。クパ川とコロナ川にはさまれた町は、緑と水の豊かな、16世紀のルネッサンス風の城塞で囲まれた美しい町であった。しかし町中心部の銀行の壁にはまだ弾痕が残っており、爆弾の落ちた穴が残されていた。町はずれのトゥランジ(Turanj)村は最も激しく戦闘が行われた場所であるらしく、戦車や撃墜された航空機の残骸などが集められ、将来、「内戦博物館」を作る予定であるという。緑の川辺にたたずむ町随一のコロナ・ホテルは、10年を経た今も破壊されたままであった。
(ここに、元webには現地の写真を入れてあります。後日、転載)
このような背景の中で、第二回目のISSR大会がクロアチアで開催されたわけであるが、ローカル・コミティおよび支援したクロアチア社会学会のメンバーにとって、このような国際会議を独立国家のもとで再び開ける自由と力を獲得したことは、万感迫る想いであったに違いない。大会ハンドブックの序文から、それが伝わってくる。そして彼らは、この大会を旧共産圏諸国に宗教社会学をさらに広め、それらの新しい社会の再構築に役立てていきたいという、大いなる願望と期待をもって会議の運営に臨んでいた。
4.旧共産圏諸国の宗教と政治
ここで本大会での議論のいくつかを紹介したいが、その前に総合テーマ「宗教と社会:境界への挑戦」を掲げた大会全体の基調を概観するために、プレナリー・セッションと主催地によるローカル・セッションの一覧を記しておく。
プレナリー・セッションⅠ(7/19)
ジャン・ボベロ「ポスト近代と公的・私的領域の変化」
アレキサンダー・アガジャニアン「旧共産圏社会における宗教-プライヴァシーの探求と物語(伝統)の復興」
アンドレ・コルテン「恐怖と宗教-国家の暴力と私的暴力」
プレナリー・セッションⅡ(7/21)
アイリーン・バーカー「どこにラインをひくのか-プラトン、メアリー・ダグラス、新宗教」
サージャン・ヴルカン「予備的な挑戦-境界か国境か、それともフロンティアーか」
パトリック・ミシェル「開かれた空間と多元的アイデンティティー:宗教的信仰の現代的再結合」
中東欧セッション(7/20)
ミクロス・トムカ「従来の宗教社会学は東欧と西欧の発展の相違に対処できるか?」
イリーナ・ボロウィク「旧ソ連圏における共産主義の崩壊に直面する正教会」
ディンカ・マリノヴィッチ他「境界の内と外における宗教-クロアチアの場合」
このような問題提起のもとで、数多くのテーマセッションが組織され、論議されていった。すべては網羅できないが、目についた具体的なテーマセッションは、①フランスのライシテ原則への挑戦など、世俗化と政教分離原則の揺らぎに関する報告と論議、②宗教の政治への参加/介入がイスラムのみでなく、正教会などにも起こっている問題、③ポスト・コミュニスト諸国における資本主義化と宗教の復活に関する報告。④ムスリムのヨーロッパ移住の後、当該地域の生活に触れて、女性の地位の変化、教義の再解釈に関する報告。③地域の教会が地方自治体の活動領域である社会福祉(高齢者介護など)に積極的に関わり、成果をあげている北欧社会の報告、などである。
筆者は、上記の②③に関連するテーマセッション15((TST15 Between Law and Culture: Public Religion and Democracy in Post-Communist Societies)に主として参加したので、その発表を中心に、バルカン諸国における宗教と政治の問題をいくつか紹介しておきたい。
まず全体を俯瞰する上で有益だったのは、James R. Richardson ’Religion, Constitutional Courts, and Democracy in Former Communist Countries’ , およびMiklos Tomka ‘Is Conventional Sociology of Religion Apt to Deal with Differences between Eastern and Western European Development?’ であった。リチャードソンによると、旧共産圏諸国は解放された後、驚くほど一応に「代議制民主主義と立憲主義に基づく法による統治」を基本政体として国家を再建しようとしており、その憲法規定に「人権の尊重」「宗教的自由の重視」が広くうたわれている。半世紀以上にわたって宗教を否定するイデオロギーに支配されていた地域における、このような宗教重視の態度はなぜ生まれたのか。その第一の原因は、旧共産主義政権の崩壊に大きな役割を演じたのが宗教であったことである。具体的には第二バチカン公会議以降のカトリック教会、特に、ポーランド出身の前法王ヨハネ・パウロⅡの影響が大きかった。その結果、共産主義政体からの解放を求める動機に、宗教的なものが強くなったといえる。第二に、各国の具体的な民主主義のあり方を決定づける上で、それぞれの憲法裁判所が大きな役割を演じていたことをあげている。その判決によって、少数派の宗教運動も含めたきわめてリベラルな「信教の自由」原則を打ちだすか、特定の宗教的伝統をナショナル・アイデンティティーの柱としようとするかなどの相違も生まれたが、各国の憲法裁判所は、おおむね宗教または宗教団体が公的に適切な地位を与えられるべきであるという判断をだしているという。
ハンガリーのトムカやクロアチアのマリノヴィッチほかの報告から、西ヨーロッパで始まった「ヨーロッパ価値観調査」(EVS)と同様の綿密な意識調査を、中東欧においても各国の社会学者や政府機関が積極的行っていることが明らかとなった。それに基づく詳細な発表が多く、説得力もあった。トムカによると、①ヨーロッパ全体の価値観調査の結果を比較すると、東欧諸国の方が「宗教的信仰」が高くなっている。②東欧では、20代と60代に宗教心が高くなっている。③政府などの公的機関と教会の、どちらを信頼するかという問いには、教会をより高く信頼するのが、ルーマニア、ポーランド、イタリア、スロベニア、ウクライナ、クロアチア、ロシアなどで、政府機関の方が高いのが、セルビアやブルガリアなどであるという、興味深い結果がみられるという。
マリノヴィッチほかの報告(Dinka Marinovic & Sinisa Zrinscak, ‘Religion within and beyond Border: the Case of Croatia’. Ankica Morinovic, ‘Catholic Church in Croatia’)によると、旧共産圏諸国において伝統的諸教会が急速な勢いで復興しており、それぞれの国民的または民族的アイデンティティーの再構築の中心的要素として、伝統宗教が大きな影響力を発揮している。クロアチアにおいても、1960年代からは大幅な世俗化(secularization)を経験したが、宗教を「不自然に」抑圧する体制から自由になった後の90年代以降に、すなわち共産主義連邦から離脱して独立の民主主義国家になった後、宗教復興(revitalization)を経験している。
90年代半ばには、クロアチアではカトリック教徒のクロアチア人が80%近くを占め、正教会教徒のセルビア人が12%であると記されてきたが、今回、紹介されたCensus2001によると、カトリック教徒84%で、正教会全体で4.4%と激減していた。マリノヴィッチらの調査では、さらに、「熱心な信仰者(firm believers)、および宗教心が高い(religious)」との回答率が41%(1989年)から78%(2004年)に急増し、「神の存在を信じる」は15%から40%に、日曜礼拝に出席する率も45-50%に増加したという。ただ、クロアチア国内を詳細に検討すると地域によって格差がある。以下の表は、文中に挿入された調査結果”Social and Religious Changes”(The Institute for Social Research in Zagreb, 2004)の一部である。
(以下の数値は一覧表になっているが、ここではうまく転載できていないので、元のweb siteを当面参照してください)
Religious selfidentification in macro-regions in Croatia in 2004 (%)
Macro-region
Firm Believers
Religious
Total 1+2
Insecure and Indifferent
Not religious & opposed to religion
East Croatia
51,9
29,0
80,9
12,7
6,3
Dalmatia
50,1
36,0
86,1
9,1
4,8
Central Croatia
37,0
40,1
77,1
14,4
8,5
Istria and Primorje
22,8
43,9
66,7
16,3
17,0
χ2 = 106,53 p‹0,01 c=0,21
Religious selfidentification in four region in Croatia 2004 (in %)
Regions
Firm believers
Religious
Total 1+2
Insecure and indifferent
Not religious and opposed to religion
Dubrovnik County
67,8
28,8
96,6
3,4
0
Vukovar County
69,7
18,2
87,9
11,1
0
Sisak County
30,4
39,1
69,5
20,6
9,8
Karlovac County
32,9
43,8
76,7
16,4
6,9
χ2=53,90 p‹0,01 c= 0,38
セルビアに接する東クロアチアと国土の南端にあるドゥブロクニクを含むダルマチア地域は宗教心が強く、イタリアやスロベニアに近いイストリア地方は、弱いことがわかる。下段からは、セルビアによる攻撃の激しかったドゥブロクニクは宗教心がきわめて高く、同じく攻撃を受けてもカールロヴァックはそれほどでもないことがわかる。ディンカによると、その理由はカールロヴァックには今でもセルビア人が多く戻ってきて住んでおり、正教会教徒の彼らは「信仰心」が高くはないからであるという。
こうした地域差や民族・宗教差というものを詳細に検討すると、独立国家となった旧ユーゴスラビア諸国の国境画定の複雑さと困難さを表しており、クロアチアはカトリック国、セルビアは正教会という単純なとらえ方の無意味さを知ることができた。そして同一国内で共存している場合にこそ、カトリックはクロアチア人の、正教会はセルビア人の、イスラムはムスリムの民族的かつ個人的アイデンティティーの核として強く機能していることがわかる。
しかし、復活した伝統教会は単に文化的なアイデンティティーの核になっているだけではない。政治や国家への関与の増大も、また共通にみられる現象である。クロアチアでも、独立国家における政治がクロアチア人の利益を優先する民族中心主義に傾斜していくのは、ある意味で当然であり、それをディンカは“a prevailing tendency of ethnification of the politics and politization of ethnicity”と呼んでいるが、その動きは実は”politization of religion, especially of Catholicism, and religionization of politics”を通して顕在化しているという。つまりカトリック教会が政治的にも発言力を強めており、政治的または国家的権益を確保したいという傾向が見られるという。しかし、国民の70%以上は国家が宗教への関与を禁止することを望んでいるのと同様に、聖職者の国家や政治への関与を望ましくないと考えているという。
この政治への関与については、特にセルビアからの数少ない参加者の一人グリシク・ジャスミナの報告(Glisic Jasmina), ‘The Serbian Orthodox Church following the democratic changes in Serbia of October5, 2000’)が、きわめて衝撃的であった。それによると2000年5月のミロシェビッチ政権の崩壊後もセルビア正教会はセルビアの政界への影響力を維持し続け、移行期にあるセルビア社会の民族ナショナリズムethno-nationalism)の柱であり、ナショナル・アイデンティティーの基礎となっている。そればかりか憲法で規定された政教分離原則をやぶる様々な動向が明らかにされた。その一つは、政治的社会的権力の配分へ介入し、社会主義化の過程で失われた教会財産の返還を政府に求め、また各種選挙を通じて影響力の拡大をめざし、政府の諸施策への監視や批判を強めている。第二に、公教育への介入である。セルビア正教会の神学を基本とした宗教教育を公立学校で行うことを政府に認めさせ、2001年から開始された。しかし、その実施は法律でなく政府の条例によって命じられて始まったのであり、議会での十分な討論もなあされておらず、多くの国民も納得していないという。またこの条例では同時に、1952年にチトーによって廃止された国立ベルグラード大学の神学部を復活させたという。
第三には、軍と正教会との緊密な接近である。やはり2000年秋以降、軍上層部と教会指導部との相互訪問が頻繁に行われ、結果的に正教会の司祭が軍に公式に導入された。また軍学校の生徒と若い下士官らがイコンや十字架を掲げて教会に行軍し、将校と兵士の洗礼式が教会で行われるようになった。このような動きを支える論理は、「法の下では、すべての宗教は平等である。しかし、われわれの民族の文化と歴史の前では、それは平等ではない。セルビアの国民文化形成、民族の本質と国家の質を高める上で、セルビア正教会の貢献は比類ないものである」という論理であった。発表者は、これらの動向がめざす最終的な目標は、正教会の国教化であり、世俗国家の解体であると、強い危機感を表明していた。
そのほか、Maria Serafimova, ‘Religion and Politics: The Case of the Bulgarian Orthodox Church.’ Anton K Berishaj, ‘The Level of Religiousness in KOSOVA.’ Gavril Flora, Georgina Szilagyi, Victor Roundmetof, ‘Religion and national identity in post-communitst Romania’. Michaela Moravčíková, Silvia Jozefčiaková, ‘Clara Pacta - Boni Amici? Religion, Law and Democracy in Holy See - Slovak Relations’ など貴重で、刺激的な報告が多数あった。
以上、中東欧諸国における宗教と政治、宗教と国家の複雑で困難な展開過程を垣間見てきたが、それほど広くないバルカン地域における民族、国家、政治と宗教とが、まさに激しく自己主張し合いながら、新しい国家・社会の建設途上にあるダイナミックなエネルギーを感じることもできた。そして、このような激しい社会変動・宗教変動の場においてこそ、宗教学や宗教社会学も蘇生していくのかと痛感した次第である。
5.日本人参加者とスピリチュアリティ・チームの奮戦
今回は日本人が9名参加したが、皆さんがそれぞれ各自のセッションで大いに気を吐いていたことはいうまでもない。初参加の嶋田さんは流暢なフランス語で人類学的発表を行って好評であったし、奥山さんの人脈の広さには改めて驚き、おかげでブルガリアやチェコの友人が多くできた。こうした中で、うれしい驚きは立田ゆきえさんの発表 (TATTA, Yukie, ‘Constructing Multi- Religious Bosnian Identity: Historical Context of Multi- Religious Bosnian Nationalism’) であった。彼女は東京大学でイスラムを学び、現在ハーバード大学大学院で研究を続けている。文献学的研究だけでなく、フィールドも一つ持つようにとの指導を受けて、どうせなら紛争地域のボスニアをフィールドにしようということで、単身、現地に乗り込み、サラエボで親しくなったおばあさんの家を拠点としながら調査を続けているという。日本外務省では旅行自粛地帯としている危険地帯である。報告によると、ボスニアはボスニア人ムスリムが40%、セルビア人正教徒30%、クロアチア人カトリック教徒が20%と、民族的宗教的に3つに完全に分れており、そのために現在でも対立紛争が絶えないという。その上で、彼女は唯一の障害は宗教の相違であるとの認識から、日本の神仏習合の宗教文化をモデルに三つの宗教的伝統が共存しうる文化モデルを提供して、現地の日常化している対立に終止符を打たせたいという、熱烈な意欲を持って語っていた。報告そのものはやや実証性がたりなかったり、日本のモデルを短絡的に応用しすぎる嫌いはあったが、MacのノートPCをデスクに広げ、小柄な体ながら、大きな身振り手振りで話す様子は、まさに新しい世代の登場だ!と感嘆した次第である。
立田さんと筆者との間の世代が、樫尾さんや弓山さんたちになるでしょう。彼ら「スピリチュアリティ・グループ」は、ここ数回のISSRに参加し、独自のセッションを毎回セットして頑張っている。今回は、会議前半にはザグレブ市内や南端のドゥブロクニクに見学調査にいき、セッションもこれまでにない成功を収めた。以下、弓山さんのレポートをもとに紹介したい。
樫尾直樹のコーディネートによるテーマセッション「東アジアの霊性」(Spirituality and Society in Contemporary East Asia)は学会最終日の7月22日に開催された。発題者は司会も兼ねる樫尾直樹(慶應義塾大学)と弓山達也(大正大学)・佐々充昭(立命館大学)・藤野陽平(慶應義塾大学大学院)で、ディスカッサントはジャン=ピエール・ベルトン(フランス国立社会科学高等研究院・同科学研究センター)。聴衆はのべ15名ほど(日本人発題者中心の部会にしては珍しく日本人聴衆は1人)であったが、全体高齢化社会の中でますます霊性の問題は重要だというコメントや、spiritualityの翻訳上の問題などに関する質問が寄せられ、好意的かつ活発な議論が展開された。以下、報告ごとにその要旨を記す。なお報告者の関連論文は樫尾直樹編『アジア遊学 84号 アジアのスピリチュアリティ』(2006年2月)に収録されている。
樫尾報告「課題としてのスピリチュアリティ研究―現代日本の事例―」(Spirituality Studies as our common task: a Case of Contemporary Japan)は、全体の問題提起も含むものであり、現代日本、とりわけ90年代以降、〈スピリチュアリティ〉(=霊性)が、広義の「健康」、つまり身体的健康だけではなく一般に精神的(心理的)、社会的健康を含みこんだ「健康」に関わる社会文化的諸領域で注目されてきていることが説明された。その社会文化的諸領域とは、たとえば、宗教はもちろんのこと、医療、看護介護、臨床心理・セラピー、生命倫理、食・エコロジー、教育、死の教育、職場、福祉、自助団体、大衆文化(マンガ、映画など)、癒し・ヒーリング、遍路などのさまざまな場であり、そこで〈スピリチュアリティ〉という言葉は積極的に使われるようになってきているという。
そこで樫尾報告では、上記の社会文化的諸領域のいくつかにおける〈スピリチュアリティ〉概念を検討し、その諸特徴を指摘することによって、現代日本の〈スピリチュアリティ〉の位相の一端とスピリチュアリティ研究の課題を明らかにすることを目指した。結論として、現代日本におけるスピリチュアリティの特徴は超越性、他者性、内面性、実践性の四つにまとめることができ、より具体的には、スピリチュアリティとは、個を超えた価値、生の実存的意味、大いなる存在に生かされている、あるいはそれとつながっているという感覚の三要素から構成されていることを明らかにした。
弓山報告「霊性と資格―日本におけるスピリチュアルケア・ワーカー養成について―」(Spirituality and Qualification: Spiritual Care Work in Japan)は、カトリック系の臨床パストラルケア教育センターと高野山真言宗のスピリチュアルケア・ワーカー養成講習会を取り上げて、制度の俎上に乗りづらいとされる霊性が、教室・病院といった制度の中で教えられ、伝えられる場面での諸特徴を指摘するものであった。それによれば2つの養成システムでは、宗教伝統の差こそあれ、教団から切り離された個人の価値観が強調される点、具体的には宗教用語を使わずに宗教性を伝える点などが等しく観察されるという。こうしたことから弓山報告では、スピリチュアルケアの現場における霊性には、(1)それまで指摘されてきた非制度的かつ個人的性格、(2)教団組織や宗教用語から解放される非定型的性格、(3)それでいて結果として教団を活性化し、宗教者の宗教性を育む宗教の根幹的な性格が認められると結論づけた。
佐々報告「現代韓国における気修練団体とスピリチュアリティ―グローバル化の中で再編されるアジア的「気」言説―」(The Ki Training Groups and Spirituality in Contemporary South Korea)は、丹田呼吸を中心とする伝統的な気修練法を普及する団体が数多く登場している韓国の現状に関するものであり、韓国における最大規模の気修練団体である「丹ワールド」の事例分析を通じて、現代韓国における「霊性(スピリチュアリティ)運動」の特色について考察を試みるものであった。
藤野報告「台湾キリスト教における霊的な癒し―真耶穌教会の事例から―」(Spiritual Health in Taiwan: from a case of True Jesus Church)は、台湾の真耶穌教会というキリスト教会の信者による癒しに関する体験談を分析することで、台湾のキリスト教において健康にはどのような原因があるとみなされているかを考察するものである。報告では病いの研究の一環として広く行われてきた災因論に比べ、取り上げられにくかった福因論を健康観の研究として行っていくべきであるという意図が説明された。その際のキー概念としてキリスト教から引き継がれてきた神と人との関わりという概念としてのスピリットと、1970年代のニューエイジムーブメントなどから引き継がれている何か自己を越えたものを介在した繋がりとしてのスピリチュアリティを分けてとりあげられた。結論としては、当教会信者の癒しの体験談には神と人との繋がりとしての聖霊の介在だけではなく、祈りあうことによる人と人の繋がりが介在していることが明らかになった。
6.ウィルソン博士追悼セッション
こちらは、ウィルソン先生の追悼ページhttp://wilson.seesaa.net/をご覧下さい。
7.今後の課題
長くなったが、全体会議でも報告されたISSRの課題を記して終えたい。
パチェ会長の全体会議での挨拶において、会員の高齢化、膠着化が進んでいる。その打開策として、ア)若手の研究者の積極的な参加、イ)非西欧社会の会員の積極的参加を促すことが必要、と訴えていた。一時は非西洋世界への呼びかけが活発に行われ、それへの応答として柳川・安斎 伸先生たちが積極的に参加していったのである。しかし筆者の印象として、特にこの10年ほどは、やはり西欧中心の学会だなという印象がむしろ強く感じたことが多かった。事実、日本以外のアジアからの参加者はさほど増えていない。今回は中東欧世界へと広がったが、それでも、そこは「彼らの」世界の一部なのである。今後、本気で非西洋世界へ広がりを持たせるつもりなのか、また広がっていった方がよいのか、筆者としては疑問である。むしろ、ISSRは西欧中心の学会であることを明確にした方がよいと思う。日本やアジアの研究者はISSRのアジア地区組織というより、アジア宗教学会のようなものをつくり、こちらも独自性を鮮明にしながら、西欧中心の学会と定期的に交流するような形を考えてみたいと思っている。
ISSRの開催時期も問題である。7月中旬は、日本の多くの大学にとって、期末の雑務でまだまだ忙しい時期である。さらに、この時期のヨーロッパは、近年、温暖化のためであろうか暑すぎる。前回のトリノも猛暑であったし、今回も暑かったり、大雨に降られたりした。西欧の学者にとっては、学会の後、ヴァカンスをとって家族旅行をするには都合がよいのだろうが、リチャードソンやバーカー、ベックフォードたちは終了後、家族を呼んでアドリア海の真珠ドゥブロクニクで休暇を取ったという。しかし、40度以上の暑さに参ったとのメールが入ってきた。いろいろな意味で、再検討を要するものが増えてきたようである。
なお次回の開催は、2007年8月初旬にドイツ・ライプツィッヒ大学で行われる。また、今学会のクロアチアの関連写真などの詳細、またウィルソン先生の追悼ページをブログで公開しているので、訪問していただければ幸いです。
http://wilson.seesaa.net/ 完
安部昭惠という人 ― 2017年03月07日
『文藝春秋』3月号のインタビュー記事「安倍昭恵『家庭内野党』の真実」(石井妙子)を読んだ。安倍首相の夫人でありながら、東北大震災後の防潮堤問題に異を唱えたり、近頃は沖縄・高江でのオスプレイ用ヘリパッド建設反対運動にでかけたりと、一見、リベラルで安倍政権の方針に反対するような行動をとって話題になっている昭恵氏という人物に、以前から何となく違和感を感じ、本当にリベラルなのか、夫と反対の価値観の持ち主なのか、そんなことが夫婦間で可能なのか等々、疑問に思っていた。
それを深く考える機会もなかったが、2017年初頭から浮上してきた森友学園問題を巡る数々のニュースの中で、母体となる塚本幼稚園で園児に「教育勅語」を朗唱させるなどの国粋主義的教育、体罰教育が行われていたことなどが明らかになってきた。このような教育に感銘を受けて学園の名誉総裁に就任していたことが判明し、加えて国会で追求され始めると名誉総裁を突如辞任するなど、どうも尋常ではないと感じることが増えてきた。
そのような時に、このインタビュー記事が話題となり、読み終わって得心したことが多かった。以下、私の興味をひいた点を中心に記しておく(以下、敬称略)。
生い立ちは次の通り。生家は森永製菓の創業家。菓子職人の森永太一郎とビジネスマンの松崎半三郎が手を組んで森永製菓がうまれ発展したが、この両創業者の孫が結婚して生まれたのが昭恵(1962年・昭和37年)である。幼稚園から私立の聖心女子学園に進み、高校まです進むが成績は振るわなかったこともあって、四年制の大学ではなく二年制の聖心女子専門学校に進学し、1983年に大手広告会社・電通に就職した。電通の上司から、当時、安倍晋太郎の秘書をしていた安倍晋三を紹介されて結婚した。
この経歴は、それ自体として興味深い。日本経済が右肩上がりの中で幼少期を過ごし、バブル期に大手会社の社員として都会の「お嬢様」を満喫していたようだ。さらに聖心女子学院というカトリック系のミッションスクールで学び、信仰心については分からないがキリスト教についての知識や精神のなにがしかは学んだはずである。聖心女子学院の卒業生には美智子皇后や作家の曽野綾子がいる。聖心関連の人脈が昭恵に影響を与えたことはいうまでもないだろう。特に曽野とは交流も深め、カンボジアの地雷除去の現場を訪れている。
彼女の人生で大きな転機になったのは、2007年に安倍が突然首相を辞任した時期で、人生の「どん底」を経験したという。その後、自分なりの人生を歩こうと考えたらしく、居酒屋UZUを開いたり、立教大学大学院21世紀デザイン研究科に入学(2009年)して2年間学んだという。初めて人と議論する経験をし、。「自分の意見」がないことに気づいたという。
インタビュアーが注目したは、同時期の2007年秋頃から「出雲大社」を皮切りに、いろいろな神社を巡りはじめ、その過程でスピリチュアルカウンセラーや神道関係者、ニューエイジ系の自然主義者との交流を深めていった点である。居酒屋の名称UZUもアメノウズメノミコトから取り、神田明神の宮司に「神降ろし」をしてもらったという。そのような中で、とりわけ大きな影響を与えたのは「水の波動」研究者、スピリッチュアルマスターと自称する故・江本勝らしい。江本との関係は昭恵のみでなく、むしろ安倍家自体が深く、つきあいは晋太郎の代からという。
(続く)
それを深く考える機会もなかったが、2017年初頭から浮上してきた森友学園問題を巡る数々のニュースの中で、母体となる塚本幼稚園で園児に「教育勅語」を朗唱させるなどの国粋主義的教育、体罰教育が行われていたことなどが明らかになってきた。このような教育に感銘を受けて学園の名誉総裁に就任していたことが判明し、加えて国会で追求され始めると名誉総裁を突如辞任するなど、どうも尋常ではないと感じることが増えてきた。
そのような時に、このインタビュー記事が話題となり、読み終わって得心したことが多かった。以下、私の興味をひいた点を中心に記しておく(以下、敬称略)。
生い立ちは次の通り。生家は森永製菓の創業家。菓子職人の森永太一郎とビジネスマンの松崎半三郎が手を組んで森永製菓がうまれ発展したが、この両創業者の孫が結婚して生まれたのが昭恵(1962年・昭和37年)である。幼稚園から私立の聖心女子学園に進み、高校まです進むが成績は振るわなかったこともあって、四年制の大学ではなく二年制の聖心女子専門学校に進学し、1983年に大手広告会社・電通に就職した。電通の上司から、当時、安倍晋太郎の秘書をしていた安倍晋三を紹介されて結婚した。
この経歴は、それ自体として興味深い。日本経済が右肩上がりの中で幼少期を過ごし、バブル期に大手会社の社員として都会の「お嬢様」を満喫していたようだ。さらに聖心女子学院というカトリック系のミッションスクールで学び、信仰心については分からないがキリスト教についての知識や精神のなにがしかは学んだはずである。聖心女子学院の卒業生には美智子皇后や作家の曽野綾子がいる。聖心関連の人脈が昭恵に影響を与えたことはいうまでもないだろう。特に曽野とは交流も深め、カンボジアの地雷除去の現場を訪れている。
彼女の人生で大きな転機になったのは、2007年に安倍が突然首相を辞任した時期で、人生の「どん底」を経験したという。その後、自分なりの人生を歩こうと考えたらしく、居酒屋UZUを開いたり、立教大学大学院21世紀デザイン研究科に入学(2009年)して2年間学んだという。初めて人と議論する経験をし、。「自分の意見」がないことに気づいたという。
インタビュアーが注目したは、同時期の2007年秋頃から「出雲大社」を皮切りに、いろいろな神社を巡りはじめ、その過程でスピリチュアルカウンセラーや神道関係者、ニューエイジ系の自然主義者との交流を深めていった点である。居酒屋の名称UZUもアメノウズメノミコトから取り、神田明神の宮司に「神降ろし」をしてもらったという。そのような中で、とりわけ大きな影響を与えたのは「水の波動」研究者、スピリッチュアルマスターと自称する故・江本勝らしい。江本との関係は昭恵のみでなく、むしろ安倍家自体が深く、つきあいは晋太郎の代からという。
(続く)
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