麻原彰晃らの死刑執行について断想2018年07月28日

オウム真理教元教祖・麻原彰晃こと松本智津夫(63歳)ほかの死刑執行に想う


2018年7月6日(金)午前、松本智津夫ほか7名の死刑が執行された。また7月26日には6名の死刑が執行され、オウム関連の事件で死刑が確定した13人の元幹部全員が執行された。この執行をマスコミを利用した公開処刑であるとか、首謀者以外の処刑は遺憾、また死刑制度そのものに反対するなど様々な意見が噴出している。死刑制度の是非は別問題なので、ここでは考えないが、松本智津夫が全ての凶悪事件の首謀者なのだから、彼のみの死刑で十分であり、他の12名は彼に従ったばかりに人生を狂わせた、むしろ被害者であるかのような論調も散見される。果たして、そうであろうか?
  長年、宗教社会学に携わった者として、次の点はほとんど議論されていないので、若干記しておきたい。Max Weber以来の「カリスマ論」において重要な点は、1.カリスマの成立にはカリスマ的人物の資質と、それを承認する人々や集団の存在が不可欠であり、それとの相互行為によって形成されるという社会学的メカニズムが存在すること。2.カリスマによる支配はウェーバーの「支配の諸類型」の一つであるが、いずれも「支配する側」の「支配への欲求」と「支配される側」の「支配の承認」と「自発的服従」が必要であること。3.カリスマ的人格の成立には、リップの言う「スティグマ化⇒自己スティグマ化⇒カリスマ化」という三段階での分析が有効である、などである。ここでは1.と2.から考えてみる。
  松本智津夫が「オウム神仙の会」を立ち上げる以前から、盲目にもかかわらず(片目は視力1.0あったという指摘もあり、事実なら全盲ではない)、または盲目であるが故に並外れた運動能力など特殊とも言える能力を示していたことは、様々に語られている。人間には普段は見えない様々な潜在能力をもっていることは事実であり、特に障害を抱える人間には健常者にない鋭い感覚や観察力等を持つ可能性は十分にある。彼が、そのような尋常でない能力をもっていたことは事実であろう。その意味で、下記の熊田一雄氏の主張は参考になる。
「オウム真理教について、私が皆さんの意見に付け加えることはあまりありませんが、おそらく知られていないエピソードをひとつ書いておきます。
 私が昔体を診てもらっていたリブ系の女性整体師さんー上野千鶴子さんも診ていましたーは、ヨガもしていたのですが、彼女によると、麻原がオウム神仙の会を始める以前から、松本智津夫の名前は、日本のヨガ関係者の間で「天才が出現した」として知られ渡っていたそうです。整体師さんも、評判を聞いて、見学に行ったそうです。「本物の天才だった」と評していました。運動神経が人間離れしていたのだそうです。
 麻原が特殊な才能を持っていたことをふまえないと、オウム真理教事件は理解できないと思います。」(熊田一雄 facebook, 20180712)

  しかし、彼がどんなに強い能力をもち、それを示していたとしても、松本智津夫の能力を承認し、賛嘆する人々が集まり、ある規模の集団が形成されなければ、彼はカリスマ的存在にはならないし、それによる支配も成立しない。「神仙の会」の頃、また「オウム真理教」形成の初期の頃は、彼のいわば超能力を自分も身につけたいと願望する人々、さらにはその能力によって新たな自分を発見・開発したいと願う人々が集ってきたに相違ない。こうして初期のカリスマ的支配による小集団が形成された。
 この段階では、グルと呼ばれた松本と弟子たちは修行や鍛錬によって相互に獲得した能力を承認しあい、より高い段階を目ざす緩やかな競争が始まった。吉永進一氏の言葉を借りれば、それは「教祖と弟子の幸せな時間」だっただろう。しかし、この幸せの時間は長くは続かず、グルはグルで自分のより高い能力を示そうとし、それに対して弟子は自分が最も熱心で忠実な弟子であること、グルの教えを正しく理解し信じていること、忠誠心が強いことなどをますます示そうとする。その過程で自分の有する高度な科学的知識や医学的、または法律上の知識や技法をもって忠誠心を示そうとするなど、師匠を神秘化・カリスマ化する「ごますり」で弟子としての自分の存在価値を示そうとする。こうした相互の承認し合いの競争行為によってグルはますますカリスマ化され、弟子たちはそのカリスマの弟子であることに喜びをみいだし、弟子相互も一番弟子たらんと競争しだす。グルは弟子どもの競争をさらに煽ることもままあっただろう。こうしたスパイラルが「暴走の構造」を生み出していったと考えられる。それは、どこかの若手社会学者がしたり顔で「忖度」があったなどと言っていたが、そんな程度のものではない。
  松本がヨガ修行者として、ヨガ修行法や仏教の知識において、また人間観察力などで他の弟子たちより抜きんでていたとしても、サリンやVXガス、その他の武器について、ましてやその製造法について知っていたはずはない。それらの知識や使用効果について弟子どもがせっせとご注進し、よし、それを使えば警察の捜査を攪乱できるぞ、それがハルマゲドンの始まりだ!などと掛け合ううちに、どんどん暴走していったと考えられる。松本が「弟子が暴走した」などと呟いたというが、ある面では真実かも知れない。しかし、それに乗っかり、自らも暴走したのであるから、その責任は重い。
1991年9月8日の「朝まで生テレビ」に出演した麻原彰晃こと松本智津夫の映像と話を改めて観たが、かれの科学に対する考え方は、素朴実証主義とでもいうレベルで、「ある公式を実験や体験によって何度も確認できれば、それが真理だ」というものである。戦後発展した他の宗教団体にも自分たちの主張は「科学的」だと述べていた教団が幾つかあったが、それと似たような程度であったことからも、上記のことは言えそうである。
 もちろん、数々の殺人事件やサリン散布事件の最終決定、またその決定を宗教的な言説で正当化し、弟子たちに有無を言わせずに実行させた最終責任が松本智津夫にあることは言うまでもない。その意味で、彼が首謀者として死刑になったことは当然である。しかし同時に、松本一人でこれだけの集団的暴走を行いえたのではない。彼をカリスマ化し、そのカリスマに自ら従って集団として暴走させた責任は、彼の側近たちにもある。その意味で、側近たちの処刑が同時に行われたことに意義がないわけではない。
 松本は「自分は修行によって最終解脱に達した」と語ったというが、解脱したと確信しようが、何かの生まれ変わりと主張しようが、所詮は人間であることに変わりはない。人間個人の間で能力の多様性や差はあり、ある人物が平均的な人間の能力を超えた何かをもつことはあるだろうが、だからといって自然界に生きる人間であることに変わりはない。換言すれば、自然界の物理化学的法則を越えた存在であり得るはずはない。「空中浮揚」についても、当初からトリック写真だと見抜いていた人もいたし、私もいかがわしいと思っていた。ヨガ的修行によって結跏趺坐したまま少々飛び跳ねることは出来る。それを週刊プレイボーイのカメラマンがタイミング良く撮った写真を大々的に活用して超能力だと宣伝し、それを三流メディアが面白おかしく報道しあい、それに乗せられたり、憧れたりした若者たちによって、彼のカリスマ性が捏造されていったに過ぎない。
  人間は生物進化の過程で様々な能力を発展させてきた。ある種の神秘的体験、宗教的体験といわれる経験をする能力をも発展させ、あたかも霊界や超越的世界、死後の世界に行ったなどと、それら超自然的世界が実在するかのような感覚にとらわれることがある。しかし、それは人間の幻覚体験であって、そのような世界は実在しない。26日に死刑となった元信者・広瀬健一氏の手記「学生の皆さまへ」が公開されたが、彼が麻原の説く宗教的世界に飲み込まれていった過程を生々しく語っている。是非、多くの人に読んでもらいたい。 http://religion.sakura.ne.jp/religion/aum/hirose.pdf

人間には優れた面と同時に唾棄すべき面を、誰でもがもっている。人間には成功もあれば失敗もある。どんな優れた人物でも間違うことはある。善き人間は常に自己反省を忘れず、間違いを犯した際にはきちんと認めて修正していける人間である。優れた指導者は、弟子や自分の組織が暴走し始めたり、間違った方向に動き出したなら、それを身をもって止めたり、方向を変えられる人物である。松本は、その両方の面で失格であった。

私たちがこの事件をとおして学ばなければならないことは、特定の人間を神秘化したり、全知全能のごとく見なしたり、間違いのない絶対者のごとくカリスマ化することの危険性である。カリスマ的人物への盲信・盲従は危険である。そのような存在には常に懐疑の目を向けることが必要なのである。
特に、宗教現象や宗教運動を学問的に、または(人文また社会)科学的に研究する宗教学者であるなら、尚更であろう。

クロアチア・ザグレブ 第28回ISSR/SISR(国際宗教社会学会)大会の報告(2006年4月23日掲載)2018年06月17日

第28回ISSR/SISR(国際宗教社会学会)ザグレブ大会の報告(2006年4月23日投稿)
Religion and Politics in the challenging boundaries of the Eastern and Central Europe: From the 28th Conference of the ISSR held in Croatia, July 2005. 
Tsuyoshi Nakano

本稿は2006年4月23日に下記のweb siteに投稿したものです。記録のために、本ブログに転載します。画像や図はうまく転載できていないので、下記を覗いてみてください。
http://glocal.seesaa.net/article/16956065.html

1.はじめに
  昨2005年7月18日から22日にかけて、バルカン半島の付け根に位置するクロアチア共和国の首都ザグレブで、国際宗教社会学会第28回大会(XXVIIIth Conference of the International Society for the Sociology of Religion)が開催された(以下、ISSRと略記)。会場は、ザグレブ大学機械工学・造船学部の数棟を使って行われたが、学部長室が船長室を模した楕円形であったり、構内に航空機のエンジンが置かれていたりと、クロアチアが古くから中東欧における造船や工学の中心地であることを思いおこさせるキャンパスであった。
  全参加者数は282名と必ずしも多くはなかったが、中東欧の若い研究者が多数、しかも初めて参加し、全体として活性化した印象であった。なお遠方にもかかわらず日本人参加者は以下の9名にのぼった。立田ゆきえ(ハーバード大学大学院)、嶋田義仁(名古屋大学)、奥山倫明(南山大学)、佐々充昭(立命館大学)、藤野陽平(慶応大学大学院)、弓山達也(大正大学)、樫尾直樹(慶応大学)、田島忠篤(天使大学)、中野毅(創価大学)。
  今大会の総合テーマはReligion and Society: Challenging Boundaries である。グローバル化が進展する現代世界において宗教的領域と非宗教的領域との境界が再構築される過程にあるとの基本的認識から、このテーマが掲げられたと考えられる。しかし実際の議論は、決して抽象的なものではなく、中東欧諸国からの研究者によって、旧社会主義圏の境界が崩壊し再構築されていく過程で遭遇している、深刻で重要なテーマが多数論じられていた。
  実は、これらバルカン諸国をめぐる宗教と政治、ナショナリズムの展開については、本「宗教と社会」学会の第二回大会(1994年)以来、個人的にも大変興味をもっていた。その大会で、シンポジウム「宗教と民族・ナショナリズム」を企画し、その成果を『宗教とナショナリズム』(世界思想社、1997年)として刊行したが、その中で国立民族学博物館の新免光比呂氏にボスニア・ヘルツェゴビナを事例に報告していただき、大いに刺激を受けたからである。今回、その地に一歩踏み入れ、多くの発表や議論を聞き、この地域の歴史、政治的環境、民族と宗教について、多少なりとも実感をもって学ぶことができた。また今大会では、2004年秋に亡くなった終身名誉会長B.R.ウィルソン博士の追悼セッションももたれた。何らかの追悼と感謝の意を表したいと思い、参加した。本稿は、きちんと整った国際学会参加報告というより、筆者の関心に即した旅日記的な内容になることをお許しいただきたい。


2.クロアチアと日本
  今回の大会における大きな特徴は、開催地がクロアチア共和国で行われたこと自体にある。まず余談からで恐縮であるが、クロアチアと聞いて、すぐに合点の行く方は、よほどのサッカーファンかK1ファンであろうか。今年のワールド・カップ・サッカーでの手強い対戦相手のひとつがクロアチアであることは知れ渡ってきたし、2月2日にNHK「世界遺産シリーズ」で「アドリア海の真珠-ドゥブログニク」が放映されて、いまや多くの日本人がクロアチアについての認識を深めてきたと思う。しかし恥ずかしながら筆者は、旧ユーゴの大統領チトーがクロアチア人であった云々程度の乏しい知識しかなく、出発前の勉強もする余裕もないまま現地に向かった。明け方の4時にパリ・シャルルドゴール空港に着き、クロアチア行きは午前10時発であった。パリまでのフライトは夜行便のようなもので空いており、おかげで伸び伸びとできたが、到着したドゴール空港はまだ暗く、寝静まって何も動いていない。クロアチア便のターミナルまでは歩くと30分以上かかるが、連絡のシャトルバスも8時頃からと聞いて、仕方なく歩き出した。途中、上海で工場を経営する日本人と中国で働いていてボスニアの故郷に帰る青年と仲良くなって、道連れができたのが幸いであった。
  6時間待ってやっと離陸し、2時間もかからずにザグレブに降り立った。首都空港とはいえ、小さな地方空港のようなものであったが、軍用機が民間機のそばに並んでいたのが象徴的であった。ともあれ、ようやく現地に着いたが、やはり遠い国だというのが率直な第一印象であった。
  しかし、ホテルに向かうタクシーに乗って、一変した。若い運転手が日本人だと知ると、「おれは宮本武蔵を知っている。おまえは『五輪の書』を読んだか。おれは何回も読んだぞ。」と聞いてきたのである。こんな場所で「ミヤモトムサシ」「ゴリンノショ」「ブシドウ」などの日本語を聞こうとは予期していなかったので、はじめは何の話かわからず当惑し、大いに驚いた。道中、いろいろ聞いていくと、日本の三浦和良がクロアチアのサッカー・リーグに所属して活躍したことを市民はよく知っており、異種格闘技のK-1グランプリにアントニオ猪木のように国会議員をしながら参加しているクロアチア選手もいて、日本や日本人に対して強い親近感を持っていたのである。それだけでなく、このような競技の背後にある精神文化にも高い関心を示し、『五輪の書』はクロアチア語に翻訳されて広く読まれており、「武士道」という言葉も若者の間に有名だという。クロアチアでは日本についての情報が遙かに豊富であり、親日的であった。
  滞在したホテルは、Four Points Sheraton Panorama Hotelで、いまでこそシェラトン・グループのひとつになっているが、元は隣接した国立スポーツセンターのための宿泊施設であった。近所のレストランで田島さんと遅い夕食を食べたとき、どの皿も大盛りでたっぷりな料理だったが、それもスポーツ選手用のメニューだという。さらに日本人とわかると、閉店時間を過ぎているのにオーナーがわれわれを引き留めて日本に行った自慢話に花が咲き、キツーい地酒も振舞ってくれた。何でも日本との間でK1などの格闘技の選手の交流や獲得、大会の開催などをアレンジする興行師のような仕事をしているということであった。日本との間を頻繁に行き来している、大の親日家であった。

3.クロアチアの歴史とISSSR
  本題にもどる。ISSRはクロアチアにとって、実はきわめて重要な意味を持っていた。ISSRがクロアチアで大会を開くのは二度目である。35年前の1971年、クロアチアはISSRの第9回大会を、アドリア海に面した美しい観光地オパティジャ(Opatija)で開催していた。当時、クロアチアは旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一員であった。この連邦がチトーひきいる反ナチ・パルチザン・共産軍の闘争によって成立し、最もリベラルな社会主義を標榜していたことは知られているが、それでも連邦誕生の間もない時期に、宗教の存在を容認し、その社会的機能や意義を論じる「宗教社会学」の国際会議を開催したことは、一大挑戦であったという。
  その後の35年間も、クロアチアおよびバルカン諸国にとって決して平坦な道程でなかったことは、周知の通りである。そして1989年から始まったソビエト連邦および旧共産主義圏の崩壊と再編の中で、1961年6月に反連邦志向の強かったスロベニアが、9月にはクロアチアがいち早く独立を宣言し、それぞれ共和国を創設した。しかし、この連邦解体過程で独立を軍事的にも阻止しようとしたセルビア主体の連邦軍は、クロアチアとスロベニアの各地を攻撃し、爆撃や砲撃によって多数の死傷者がでた。首都ザグレブや30キロほど南西にあってセルビア人も多くすんでいたカールロヴァック(Karlovac)は爆撃され、最南端の海に浮かぶ真珠のような街・ドゥブロブニク(Dubrovnik)も大半が破壊されたという。このような中でカトリック教徒のクロアチア人、正教徒のセルビア人とムスリムのボスニア人などの民族対立が激化し、内戦状態となり、コソヴォの惨劇、NATOによるベオグラードなどへの空爆などが、1991―95年に起こったのである。
現在、クロアチアは治安も安定し、かつての美しい観光地としての雰囲気がほぼ回復している。しかし、内戦時の傷跡は一部でまだ生々しく残っており、特に人々の心に及ぼした悲惨な記憶と傷の深さは、いまだ癒されていない。ISSRの大会においても、プログラムにはエントリーしていたセルビア人やマケドニア人の土壇場キャンセルがめだったこと。また現地からの参加者も、内戦後の復興については率直に語ってくれても、内戦そのものにふれるような話題や発表は一切見あたらず、人々がまだ沈黙の中にいることであった。10年では、決して癒されることのない傷が、まだ、そこにあった。
また軍事攻撃の痕跡は、ザグレブ市内ではほとんど見られなかったが、地方都市や国境付近には爆撃を受けた痕跡と廃墟があり、さらに地雷や劣化ウラン弾も残っているという。筆者は、帰国する当日の早朝、カールロヴァックを訪れた。高速バスとタクシーで2時間ほどかかってやっと現地に着いた。クパ川とコロナ川にはさまれた町は、緑と水の豊かな、16世紀のルネッサンス風の城塞で囲まれた美しい町であった。しかし町中心部の銀行の壁にはまだ弾痕が残っており、爆弾の落ちた穴が残されていた。町はずれのトゥランジ(Turanj)村は最も激しく戦闘が行われた場所であるらしく、戦車や撃墜された航空機の残骸などが集められ、将来、「内戦博物館」を作る予定であるという。緑の川辺にたたずむ町随一のコロナ・ホテルは、10年を経た今も破壊されたままであった。 

(ここに、元webには現地の写真を入れてあります。後日、転載)

 このような背景の中で、第二回目のISSR大会がクロアチアで開催されたわけであるが、ローカル・コミティおよび支援したクロアチア社会学会のメンバーにとって、このような国際会議を独立国家のもとで再び開ける自由と力を獲得したことは、万感迫る想いであったに違いない。大会ハンドブックの序文から、それが伝わってくる。そして彼らは、この大会を旧共産圏諸国に宗教社会学をさらに広め、それらの新しい社会の再構築に役立てていきたいという、大いなる願望と期待をもって会議の運営に臨んでいた。

4.旧共産圏諸国の宗教と政治
 ここで本大会での議論のいくつかを紹介したいが、その前に総合テーマ「宗教と社会:境界への挑戦」を掲げた大会全体の基調を概観するために、プレナリー・セッションと主催地によるローカル・セッションの一覧を記しておく。

プレナリー・セッションⅠ(7/19)
 ジャン・ボベロ「ポスト近代と公的・私的領域の変化」
 アレキサンダー・アガジャニアン「旧共産圏社会における宗教-プライヴァシーの探求と物語(伝統)の復興」
 アンドレ・コルテン「恐怖と宗教-国家の暴力と私的暴力」
プレナリー・セッションⅡ(7/21)
 アイリーン・バーカー「どこにラインをひくのか-プラトン、メアリー・ダグラス、新宗教」
 サージャン・ヴルカン「予備的な挑戦-境界か国境か、それともフロンティアーか」
 パトリック・ミシェル「開かれた空間と多元的アイデンティティー:宗教的信仰の現代的再結合」
中東欧セッション(7/20)
 ミクロス・トムカ「従来の宗教社会学は東欧と西欧の発展の相違に対処できるか?」
 イリーナ・ボロウィク「旧ソ連圏における共産主義の崩壊に直面する正教会」
 ディンカ・マリノヴィッチ他「境界の内と外における宗教-クロアチアの場合」

 このような問題提起のもとで、数多くのテーマセッションが組織され、論議されていった。すべては網羅できないが、目についた具体的なテーマセッションは、①フランスのライシテ原則への挑戦など、世俗化と政教分離原則の揺らぎに関する報告と論議、②宗教の政治への参加/介入がイスラムのみでなく、正教会などにも起こっている問題、③ポスト・コミュニスト諸国における資本主義化と宗教の復活に関する報告。④ムスリムのヨーロッパ移住の後、当該地域の生活に触れて、女性の地位の変化、教義の再解釈に関する報告。③地域の教会が地方自治体の活動領域である社会福祉(高齢者介護など)に積極的に関わり、成果をあげている北欧社会の報告、などである。
 筆者は、上記の②③に関連するテーマセッション15((TST15 Between Law and Culture: Public Religion and Democracy in Post-Communist Societies)に主として参加したので、その発表を中心に、バルカン諸国における宗教と政治の問題をいくつか紹介しておきたい。
 まず全体を俯瞰する上で有益だったのは、James R. Richardson ’Religion, Constitutional Courts, and Democracy in Former Communist Countries’ , およびMiklos Tomka ‘Is Conventional Sociology of Religion Apt to Deal with Differences between Eastern and Western European Development?’ であった。リチャードソンによると、旧共産圏諸国は解放された後、驚くほど一応に「代議制民主主義と立憲主義に基づく法による統治」を基本政体として国家を再建しようとしており、その憲法規定に「人権の尊重」「宗教的自由の重視」が広くうたわれている。半世紀以上にわたって宗教を否定するイデオロギーに支配されていた地域における、このような宗教重視の態度はなぜ生まれたのか。その第一の原因は、旧共産主義政権の崩壊に大きな役割を演じたのが宗教であったことである。具体的には第二バチカン公会議以降のカトリック教会、特に、ポーランド出身の前法王ヨハネ・パウロⅡの影響が大きかった。その結果、共産主義政体からの解放を求める動機に、宗教的なものが強くなったといえる。第二に、各国の具体的な民主主義のあり方を決定づける上で、それぞれの憲法裁判所が大きな役割を演じていたことをあげている。その判決によって、少数派の宗教運動も含めたきわめてリベラルな「信教の自由」原則を打ちだすか、特定の宗教的伝統をナショナル・アイデンティティーの柱としようとするかなどの相違も生まれたが、各国の憲法裁判所は、おおむね宗教または宗教団体が公的に適切な地位を与えられるべきであるという判断をだしているという。
  ハンガリーのトムカやクロアチアのマリノヴィッチほかの報告から、西ヨーロッパで始まった「ヨーロッパ価値観調査」(EVS)と同様の綿密な意識調査を、中東欧においても各国の社会学者や政府機関が積極的行っていることが明らかとなった。それに基づく詳細な発表が多く、説得力もあった。トムカによると、①ヨーロッパ全体の価値観調査の結果を比較すると、東欧諸国の方が「宗教的信仰」が高くなっている。②東欧では、20代と60代に宗教心が高くなっている。③政府などの公的機関と教会の、どちらを信頼するかという問いには、教会をより高く信頼するのが、ルーマニア、ポーランド、イタリア、スロベニア、ウクライナ、クロアチア、ロシアなどで、政府機関の方が高いのが、セルビアやブルガリアなどであるという、興味深い結果がみられるという。
 マリノヴィッチほかの報告(Dinka Marinovic & Sinisa Zrinscak, ‘Religion within and beyond Border: the Case of Croatia’. Ankica Morinovic, ‘Catholic Church in Croatia’)によると、旧共産圏諸国において伝統的諸教会が急速な勢いで復興しており、それぞれの国民的または民族的アイデンティティーの再構築の中心的要素として、伝統宗教が大きな影響力を発揮している。クロアチアにおいても、1960年代からは大幅な世俗化(secularization)を経験したが、宗教を「不自然に」抑圧する体制から自由になった後の90年代以降に、すなわち共産主義連邦から離脱して独立の民主主義国家になった後、宗教復興(revitalization)を経験している。
90年代半ばには、クロアチアではカトリック教徒のクロアチア人が80%近くを占め、正教会教徒のセルビア人が12%であると記されてきたが、今回、紹介されたCensus2001によると、カトリック教徒84%で、正教会全体で4.4%と激減していた。マリノヴィッチらの調査では、さらに、「熱心な信仰者(firm believers)、および宗教心が高い(religious)」との回答率が41%(1989年)から78%(2004年)に急増し、「神の存在を信じる」は15%から40%に、日曜礼拝に出席する率も45-50%に増加したという。ただ、クロアチア国内を詳細に検討すると地域によって格差がある。以下の表は、文中に挿入された調査結果”Social and Religious Changes”(The Institute for Social Research in Zagreb, 2004)の一部である。

(以下の数値は一覧表になっているが、ここではうまく転載できていないので、元のweb siteを当面参照してください)

Religious selfidentification in macro-regions in Croatia in 2004 (%)
Macro-region
Firm Believers
Religious
Total 1+2
Insecure and Indifferent
Not religious & opposed to religion
East Croatia
51,9
29,0
80,9
12,7
6,3
Dalmatia
50,1
36,0
86,1
9,1
4,8
Central Croatia
37,0
40,1
77,1
14,4
8,5
Istria and Primorje
22,8
43,9
66,7
16,3
17,0
χ2 = 106,53 p‹0,01 c=0,21

Religious selfidentification in four region in Croatia 2004 (in %)
Regions
Firm believers
Religious
Total 1+2
Insecure and indifferent
Not religious and opposed to religion
Dubrovnik County
67,8
28,8
96,6
3,4
0
Vukovar County
69,7
18,2
87,9
11,1
0
Sisak County
30,4
39,1
69,5
20,6
9,8
Karlovac County
32,9
43,8
76,7
16,4
6,9
χ2=53,90 p‹0,01 c= 0,38

  セルビアに接する東クロアチアと国土の南端にあるドゥブロクニクを含むダルマチア地域は宗教心が強く、イタリアやスロベニアに近いイストリア地方は、弱いことがわかる。下段からは、セルビアによる攻撃の激しかったドゥブロクニクは宗教心がきわめて高く、同じく攻撃を受けてもカールロヴァックはそれほどでもないことがわかる。ディンカによると、その理由はカールロヴァックには今でもセルビア人が多く戻ってきて住んでおり、正教会教徒の彼らは「信仰心」が高くはないからであるという。
  こうした地域差や民族・宗教差というものを詳細に検討すると、独立国家となった旧ユーゴスラビア諸国の国境画定の複雑さと困難さを表しており、クロアチアはカトリック国、セルビアは正教会という単純なとらえ方の無意味さを知ることができた。そして同一国内で共存している場合にこそ、カトリックはクロアチア人の、正教会はセルビア人の、イスラムはムスリムの民族的かつ個人的アイデンティティーの核として強く機能していることがわかる。
 しかし、復活した伝統教会は単に文化的なアイデンティティーの核になっているだけではない。政治や国家への関与の増大も、また共通にみられる現象である。クロアチアでも、独立国家における政治がクロアチア人の利益を優先する民族中心主義に傾斜していくのは、ある意味で当然であり、それをディンカは“a prevailing tendency of ethnification of the politics and politization of ethnicity”と呼んでいるが、その動きは実は”politization of religion, especially of Catholicism, and religionization of politics”を通して顕在化しているという。つまりカトリック教会が政治的にも発言力を強めており、政治的または国家的権益を確保したいという傾向が見られるという。しかし、国民の70%以上は国家が宗教への関与を禁止することを望んでいるのと同様に、聖職者の国家や政治への関与を望ましくないと考えているという。
  この政治への関与については、特にセルビアからの数少ない参加者の一人グリシク・ジャスミナの報告(Glisic Jasmina), ‘The Serbian Orthodox Church following the democratic changes in Serbia of October5, 2000’)が、きわめて衝撃的であった。それによると2000年5月のミロシェビッチ政権の崩壊後もセルビア正教会はセルビアの政界への影響力を維持し続け、移行期にあるセルビア社会の民族ナショナリズムethno-nationalism)の柱であり、ナショナル・アイデンティティーの基礎となっている。そればかりか憲法で規定された政教分離原則をやぶる様々な動向が明らかにされた。その一つは、政治的社会的権力の配分へ介入し、社会主義化の過程で失われた教会財産の返還を政府に求め、また各種選挙を通じて影響力の拡大をめざし、政府の諸施策への監視や批判を強めている。第二に、公教育への介入である。セルビア正教会の神学を基本とした宗教教育を公立学校で行うことを政府に認めさせ、2001年から開始された。しかし、その実施は法律でなく政府の条例によって命じられて始まったのであり、議会での十分な討論もなあされておらず、多くの国民も納得していないという。またこの条例では同時に、1952年にチトーによって廃止された国立ベルグラード大学の神学部を復活させたという。
  第三には、軍と正教会との緊密な接近である。やはり2000年秋以降、軍上層部と教会指導部との相互訪問が頻繁に行われ、結果的に正教会の司祭が軍に公式に導入された。また軍学校の生徒と若い下士官らがイコンや十字架を掲げて教会に行軍し、将校と兵士の洗礼式が教会で行われるようになった。このような動きを支える論理は、「法の下では、すべての宗教は平等である。しかし、われわれの民族の文化と歴史の前では、それは平等ではない。セルビアの国民文化形成、民族の本質と国家の質を高める上で、セルビア正教会の貢献は比類ないものである」という論理であった。発表者は、これらの動向がめざす最終的な目標は、正教会の国教化であり、世俗国家の解体であると、強い危機感を表明していた。
 そのほか、Maria Serafimova, ‘Religion and Politics: The Case of the Bulgarian Orthodox Church.’ Anton K Berishaj, ‘The Level of Religiousness in KOSOVA.’ Gavril Flora, Georgina Szilagyi, Victor Roundmetof, ‘Religion and national identity in post-communitst Romania’. Michaela Moravčíková, Silvia Jozefčiaková, ‘Clara Pacta - Boni Amici? Religion, Law and Democracy in Holy See - Slovak Relations’ など貴重で、刺激的な報告が多数あった。
  以上、中東欧諸国における宗教と政治、宗教と国家の複雑で困難な展開過程を垣間見てきたが、それほど広くないバルカン地域における民族、国家、政治と宗教とが、まさに激しく自己主張し合いながら、新しい国家・社会の建設途上にあるダイナミックなエネルギーを感じることもできた。そして、このような激しい社会変動・宗教変動の場においてこそ、宗教学や宗教社会学も蘇生していくのかと痛感した次第である。

5.日本人参加者とスピリチュアリティ・チームの奮戦
 今回は日本人が9名参加したが、皆さんがそれぞれ各自のセッションで大いに気を吐いていたことはいうまでもない。初参加の嶋田さんは流暢なフランス語で人類学的発表を行って好評であったし、奥山さんの人脈の広さには改めて驚き、おかげでブルガリアやチェコの友人が多くできた。こうした中で、うれしい驚きは立田ゆきえさんの発表 (TATTA, Yukie, ‘Constructing Multi- Religious Bosnian Identity: Historical Context of Multi- Religious Bosnian Nationalism’) であった。彼女は東京大学でイスラムを学び、現在ハーバード大学大学院で研究を続けている。文献学的研究だけでなく、フィールドも一つ持つようにとの指導を受けて、どうせなら紛争地域のボスニアをフィールドにしようということで、単身、現地に乗り込み、サラエボで親しくなったおばあさんの家を拠点としながら調査を続けているという。日本外務省では旅行自粛地帯としている危険地帯である。報告によると、ボスニアはボスニア人ムスリムが40%、セルビア人正教徒30%、クロアチア人カトリック教徒が20%と、民族的宗教的に3つに完全に分れており、そのために現在でも対立紛争が絶えないという。その上で、彼女は唯一の障害は宗教の相違であるとの認識から、日本の神仏習合の宗教文化をモデルに三つの宗教的伝統が共存しうる文化モデルを提供して、現地の日常化している対立に終止符を打たせたいという、熱烈な意欲を持って語っていた。報告そのものはやや実証性がたりなかったり、日本のモデルを短絡的に応用しすぎる嫌いはあったが、MacのノートPCをデスクに広げ、小柄な体ながら、大きな身振り手振りで話す様子は、まさに新しい世代の登場だ!と感嘆した次第である。
  立田さんと筆者との間の世代が、樫尾さんや弓山さんたちになるでしょう。彼ら「スピリチュアリティ・グループ」は、ここ数回のISSRに参加し、独自のセッションを毎回セットして頑張っている。今回は、会議前半にはザグレブ市内や南端のドゥブロクニクに見学調査にいき、セッションもこれまでにない成功を収めた。以下、弓山さんのレポートをもとに紹介したい。
  樫尾直樹のコーディネートによるテーマセッション「東アジアの霊性」(Spirituality and Society in Contemporary East Asia)は学会最終日の7月22日に開催された。発題者は司会も兼ねる樫尾直樹(慶應義塾大学)と弓山達也(大正大学)・佐々充昭(立命館大学)・藤野陽平(慶應義塾大学大学院)で、ディスカッサントはジャン=ピエール・ベルトン(フランス国立社会科学高等研究院・同科学研究センター)。聴衆はのべ15名ほど(日本人発題者中心の部会にしては珍しく日本人聴衆は1人)であったが、全体高齢化社会の中でますます霊性の問題は重要だというコメントや、spiritualityの翻訳上の問題などに関する質問が寄せられ、好意的かつ活発な議論が展開された。以下、報告ごとにその要旨を記す。なお報告者の関連論文は樫尾直樹編『アジア遊学 84号 アジアのスピリチュアリティ』(2006年2月)に収録されている。
  樫尾報告「課題としてのスピリチュアリティ研究―現代日本の事例―」(Spirituality Studies as our common task: a Case of Contemporary Japan)は、全体の問題提起も含むものであり、現代日本、とりわけ90年代以降、〈スピリチュアリティ〉(=霊性)が、広義の「健康」、つまり身体的健康だけではなく一般に精神的(心理的)、社会的健康を含みこんだ「健康」に関わる社会文化的諸領域で注目されてきていることが説明された。その社会文化的諸領域とは、たとえば、宗教はもちろんのこと、医療、看護介護、臨床心理・セラピー、生命倫理、食・エコロジー、教育、死の教育、職場、福祉、自助団体、大衆文化(マンガ、映画など)、癒し・ヒーリング、遍路などのさまざまな場であり、そこで〈スピリチュアリティ〉という言葉は積極的に使われるようになってきているという。
  そこで樫尾報告では、上記の社会文化的諸領域のいくつかにおける〈スピリチュアリティ〉概念を検討し、その諸特徴を指摘することによって、現代日本の〈スピリチュアリティ〉の位相の一端とスピリチュアリティ研究の課題を明らかにすることを目指した。結論として、現代日本におけるスピリチュアリティの特徴は超越性、他者性、内面性、実践性の四つにまとめることができ、より具体的には、スピリチュアリティとは、個を超えた価値、生の実存的意味、大いなる存在に生かされている、あるいはそれとつながっているという感覚の三要素から構成されていることを明らかにした。
  弓山報告「霊性と資格―日本におけるスピリチュアルケア・ワーカー養成について―」(Spirituality and Qualification: Spiritual Care Work in Japan)は、カトリック系の臨床パストラルケア教育センターと高野山真言宗のスピリチュアルケア・ワーカー養成講習会を取り上げて、制度の俎上に乗りづらいとされる霊性が、教室・病院といった制度の中で教えられ、伝えられる場面での諸特徴を指摘するものであった。それによれば2つの養成システムでは、宗教伝統の差こそあれ、教団から切り離された個人の価値観が強調される点、具体的には宗教用語を使わずに宗教性を伝える点などが等しく観察されるという。こうしたことから弓山報告では、スピリチュアルケアの現場における霊性には、(1)それまで指摘されてきた非制度的かつ個人的性格、(2)教団組織や宗教用語から解放される非定型的性格、(3)それでいて結果として教団を活性化し、宗教者の宗教性を育む宗教の根幹的な性格が認められると結論づけた。
  佐々報告「現代韓国における気修練団体とスピリチュアリティ―グローバル化の中で再編されるアジア的「気」言説―」(The Ki Training Groups and Spirituality in Contemporary South Korea)は、丹田呼吸を中心とする伝統的な気修練法を普及する団体が数多く登場している韓国の現状に関するものであり、韓国における最大規模の気修練団体である「丹ワールド」の事例分析を通じて、現代韓国における「霊性(スピリチュアリティ)運動」の特色について考察を試みるものであった。
  藤野報告「台湾キリスト教における霊的な癒し―真耶穌教会の事例から―」(Spiritual Health in Taiwan: from a case of True Jesus Church)は、台湾の真耶穌教会というキリスト教会の信者による癒しに関する体験談を分析することで、台湾のキリスト教において健康にはどのような原因があるとみなされているかを考察するものである。報告では病いの研究の一環として広く行われてきた災因論に比べ、取り上げられにくかった福因論を健康観の研究として行っていくべきであるという意図が説明された。その際のキー概念としてキリスト教から引き継がれてきた神と人との関わりという概念としてのスピリットと、1970年代のニューエイジムーブメントなどから引き継がれている何か自己を越えたものを介在した繋がりとしてのスピリチュアリティを分けてとりあげられた。結論としては、当教会信者の癒しの体験談には神と人との繋がりとしての聖霊の介在だけではなく、祈りあうことによる人と人の繋がりが介在していることが明らかになった。

6.ウィルソン博士追悼セッション 
 こちらは、ウィルソン先生の追悼ページhttp://wilson.seesaa.net/をご覧下さい。         

7.今後の課題
 長くなったが、全体会議でも報告されたISSRの課題を記して終えたい。
パチェ会長の全体会議での挨拶において、会員の高齢化、膠着化が進んでいる。その打開策として、ア)若手の研究者の積極的な参加、イ)非西欧社会の会員の積極的参加を促すことが必要、と訴えていた。一時は非西洋世界への呼びかけが活発に行われ、それへの応答として柳川・安斎 伸先生たちが積極的に参加していったのである。しかし筆者の印象として、特にこの10年ほどは、やはり西欧中心の学会だなという印象がむしろ強く感じたことが多かった。事実、日本以外のアジアからの参加者はさほど増えていない。今回は中東欧世界へと広がったが、それでも、そこは「彼らの」世界の一部なのである。今後、本気で非西洋世界へ広がりを持たせるつもりなのか、また広がっていった方がよいのか、筆者としては疑問である。むしろ、ISSRは西欧中心の学会であることを明確にした方がよいと思う。日本やアジアの研究者はISSRのアジア地区組織というより、アジア宗教学会のようなものをつくり、こちらも独自性を鮮明にしながら、西欧中心の学会と定期的に交流するような形を考えてみたいと思っている。
  ISSRの開催時期も問題である。7月中旬は、日本の多くの大学にとって、期末の雑務でまだまだ忙しい時期である。さらに、この時期のヨーロッパは、近年、温暖化のためであろうか暑すぎる。前回のトリノも猛暑であったし、今回も暑かったり、大雨に降られたりした。西欧の学者にとっては、学会の後、ヴァカンスをとって家族旅行をするには都合がよいのだろうが、リチャードソンやバーカー、ベックフォードたちは終了後、家族を呼んでアドリア海の真珠ドゥブロクニクで休暇を取ったという。しかし、40度以上の暑さに参ったとのメールが入ってきた。いろいろな意味で、再検討を要するものが増えてきたようである。
 なお次回の開催は、2007年8月初旬にドイツ・ライプツィッヒ大学で行われる。また、今学会のクロアチアの関連写真などの詳細、またウィルソン先生の追悼ページをブログで公開しているので、訪問していただければ幸いです。
http://wilson.seesaa.net/             完

安部昭惠という人2017年03月07日

 『文藝春秋』3月号のインタビュー記事「安倍昭恵『家庭内野党』の真実」(石井妙子)を読んだ。安倍首相の夫人でありながら、東北大震災後の防潮堤問題に異を唱えたり、近頃は沖縄・高江でのオスプレイ用ヘリパッド建設反対運動にでかけたりと、一見、リベラルで安倍政権の方針に反対するような行動をとって話題になっている昭恵氏という人物に、以前から何となく違和感を感じ、本当にリベラルなのか、夫と反対の価値観の持ち主なのか、そんなことが夫婦間で可能なのか等々、疑問に思っていた。
 それを深く考える機会もなかったが、2017年初頭から浮上してきた森友学園問題を巡る数々のニュースの中で、母体となる塚本幼稚園で園児に「教育勅語」を朗唱させるなどの国粋主義的教育、体罰教育が行われていたことなどが明らかになってきた。このような教育に感銘を受けて学園の名誉総裁に就任していたことが判明し、加えて国会で追求され始めると名誉総裁を突如辞任するなど、どうも尋常ではないと感じることが増えてきた。
 そのような時に、このインタビュー記事が話題となり、読み終わって得心したことが多かった。以下、私の興味をひいた点を中心に記しておく(以下、敬称略)。
 生い立ちは次の通り。生家は森永製菓の創業家。菓子職人の森永太一郎とビジネスマンの松崎半三郎が手を組んで森永製菓がうまれ発展したが、この両創業者の孫が結婚して生まれたのが昭恵(1962年・昭和37年)である。幼稚園から私立の聖心女子学園に進み、高校まです進むが成績は振るわなかったこともあって、四年制の大学ではなく二年制の聖心女子専門学校に進学し、1983年に大手広告会社・電通に就職した。電通の上司から、当時、安倍晋太郎の秘書をしていた安倍晋三を紹介されて結婚した。
 この経歴は、それ自体として興味深い。日本経済が右肩上がりの中で幼少期を過ごし、バブル期に大手会社の社員として都会の「お嬢様」を満喫していたようだ。さらに聖心女子学院というカトリック系のミッションスクールで学び、信仰心については分からないがキリスト教についての知識や精神のなにがしかは学んだはずである。聖心女子学院の卒業生には美智子皇后や作家の曽野綾子がいる。聖心関連の人脈が昭恵に影響を与えたことはいうまでもないだろう。特に曽野とは交流も深め、カンボジアの地雷除去の現場を訪れている。
 彼女の人生で大きな転機になったのは、2007年に安倍が突然首相を辞任した時期で、人生の「どん底」を経験したという。その後、自分なりの人生を歩こうと考えたらしく、居酒屋UZUを開いたり、立教大学大学院21世紀デザイン研究科に入学(2009年)して2年間学んだという。初めて人と議論する経験をし、。「自分の意見」がないことに気づいたという。
 インタビュアーが注目したは、同時期の2007年秋頃から「出雲大社」を皮切りに、いろいろな神社を巡りはじめ、その過程でスピリチュアルカウンセラーや神道関係者、ニューエイジ系の自然主義者との交流を深めていった点である。居酒屋の名称UZUもアメノウズメノミコトから取り、神田明神の宮司に「神降ろし」をしてもらったという。そのような中で、とりわけ大きな影響を与えたのは「水の波動」研究者、スピリッチュアルマスターと自称する故・江本勝らしい。江本との関係は昭恵のみでなく、むしろ安倍家自体が深く、つきあいは晋太郎の代からという。
(続く)