藤井修平 『科学で宗教が解明できるか』 (勁草書房、2023年1月)を読む2023年09月24日

藤井修平著
『科学で宗教が解明できるか――進化生物学・認知科学に基づく宗教理論の誕生――』勁草書房 二〇二三年一月刊
A5判 ⅳ+二三九+xxii頁 四〇〇〇円+税

〈本書の書評が、『宗教研究』第97巻407号第2輯(281~286頁)に掲載されました。ここに転載します〉

 動物行動学者のリチャード・ドーキンスの『神は妄想である』(二〇〇六年)は衝撃的であった。二〇世紀後半から二一世紀にかけて、自然科学では進化生物学や認知科学が発展したが、その知見を宗教研究にも適用する試みが欧米を中心に大きく展開した。その象徴的な著作がドーキンスのであり、またパスカル・ボイヤーの『神はなぜいるのか?』(二〇〇一年)などである。その動向は加速度的に進展し、宗教行動も含む人間行動に進化生物学を応用する進化心理学や文化進化論が発展し、さらに認知科学的知見を取り入れた「宗教認知科学」(Cognitive Science of Religion 略称CSR)という研究分野まで誕生した。そして「国際宗教認知科学会」(二〇〇六年)が設立されるまでになったのである。
 しかし、この動きに十分に注目した日本の宗教研究者は少ない。その中で、進化生物学・認知科学を用いた「科学的宗教理論」の展開過程、内容、その発展の背景にある「知の変動」、それが従来の宗教研究に与えた衝撃、さまざまな宗教思想への影響などを、「宗教学理論研究」としてまとめた本書は、現在のところ、この分野の研究動向や様々な成果を俯瞰した貴重な一書である。
 本書は二〇二〇年度に東京大学大学院人文社会系研究科に提出した博士論文をもとに、エリアーデ批判に関する章などを加筆・修正したものである。

 序論「問いと視点、研究方法と先行研究」において、本書が問う問題は、進化生物学・認知科学を用いた宗教理論とは何か、その方法論と思想、関連する社会変化を明らかにすることであると記し、また本書は宗教学理論の研究であること、理論研究には評価、批判、思想としての理解という三つの方法があるが、それぞれの利点を取り入れた包括的視点に立って論じるとした。日本では未だに科学的宗教理論に対する理解が欠けており、そのため既存の研究との間に断絶がある。さらに科学的宗教理論の社会的背景が明らかにされていない。これらの問題を解決するため、本書では科学的宗教理論が依拠している進化生物学・認知科学の諸理論の発展を詳説し、科学的宗教理論と既存の宗教研究との「対話」を促進するために、双方の相違点を明確化する。他方、科学的宗教理論は自らの「科学性」を強調するあまり、それらを取り巻く社会や権力との関係が見えにくくなっている。従って、科学的宗教理論の社会的背景にある科学と宗教の関係についての言説を再検討し、その影響をも省察するなど、本書のもくろみが述べられている。

 第1章「エリアーデ批判以後の日米宗教学の道程と課題」では、科学的宗教理論が欧米で発展した要因としてエリアーデ批判を取りあげている。宗教研究において「シカゴ学派」として一世を風靡したエリアーデ宗教学であったが、宗教現象の普遍的性格を強調するなどの「反歴史主義」、宗教現象は他の社会的政治的活動に還元し得ないスイ・ゲネリスであり、その研究にも固有の方法が必要とする主張に見られる「非還元主義」、聖俗二分説やヒエロファニーなどの中心概念が存在論的普遍構造をもっていて「規範的・神学的」であるなど徹底的に批判された。さらには一九三〇~四〇年代のルーマニアにおける民族主義運動にエリアーデが深く関与していたことから、彼の神話に関する思考は右翼政治思想の一種であるとまで主張された。
 これらの批判の先駆者はジョナサン・スミスであるが、方法論上の批判を中心的に担ってきたマッカチオンなど北米宗教学会のメンバーにも継承された。他方、ニーチェやフーコーによる系譜学的アプローチをさらに展開したアサドや、サイードなどのオリエンタリズム批判やポストコロニアリズムからも批判がなされ、藤井はそれらを科学的客観的な知の提供をめざす「モダニスト」と、知の絶対性・普遍性を疑問視する「ポストモダニスト」とに区分し、エリアーデを批判する異なった論点を一覧表にまとめている(三〇頁)。その上で、科学的宗教理論が欧米で発展した背景にはモダニストの存在が大きかったこと、日本でさほど発展しなかったのは、ポストモダニスト的立場からのエリアーデ批判が主流を占めていたからであると論じている。

 第2章「進化生物学における宗教理論の発展」は、本書の扱う科学的宗教理論の出発点となる社会生物学と進化生物学、その発展としての進化心理学、文化進化論などの成立と内容、それらの宗教研究への応用を詳説している。一九世紀のダーウィンによる進化論の提唱以来、地球科学や生物学、遺伝学、人類学などの発達と貢献により、地球における生物の誕生と進化の過程が明らかになってきている。本章では、進化論が単純な自然選択説から、遺伝子を自然選択の単位とすることで自己犠牲を伴う利他的行動を互恵的利他主義や血縁選択で説明する「現代総合説」に発展している事を明示し、その上で、この現代総合説による進化的視点を初めて人間の研究に応用し、賛否両論の大きな影響を与えたエドワード・ウィルソンの『社会生物学』(一九七五年)、『人間の本性について』(一九七八年)などを紹介し、遺伝子の「後生則」が人間文化の形成にも影響を及ぼしていること、人間には自然選択で形成された心理的性向である「人間本性」があるとの主張を解説している。そこにおいて宗教は遺伝子に由来し、ゆえに普遍的なものであり、人類の生存に不可欠な「適応」の産物と捉えられる。
 この主張はある種の生物学的決定論であるため強い批判も巻き起こり、ウィルソンらはそれを受けて「遺伝子と文化の共進化」を論じるようになる。本章では、これらの理論を継承発展させた進化心理学、ドーキンスやボイドなどの文化進化論、その他の宗教理論をさらに詳説し、宗教は進化した心理メカニズムの副産物である等の「適応か副産物か」との論争、宗教を生みだす心理的メカニズムとしての「擬人観」、ビッグ・ゴッドの出現と大規模社会化に関する研究など、興味深い論議をまとめている。

 第3章「宗教認知科学の成立」は、認知科学に基づいた科学的宗教理論としての宗教認知科学(CSR)の成立過程と理論の発展、進化生物学との結合、宗教学における位置について論じている。CSRは宗教研究における新しく独自の方法であるとして国際宗教認知科学会(二〇〇六年)を設立するに至り、各種の国際学会におけるCSRパネルの開催や大学における講座の開設など制度的独立を遂げている点でも際立っている。
 言語学者ノーム・チョムスキーが画期的な著作『文法の構造』(一九五七年)で、言語能力は脳の働きに依存するという言語生得説、普遍文法論を主張して一大センセーションを巻き起こしたことは有名だが、認知心理学者ジョージ・ミラーの論文The Magical Number Seven, Plus or Minus Two (1956) やジョン・マッカーシーなどの人工知能研究などによって、いわゆる「認知革命」が起こり、認知科学が生まれた。その発想の延長に、人間の心・精神も脳の働きによる生命現象であり、遺伝や発生・分化・進化などの生物学的基盤に支えられているという主張へと展開していく。
 宗教認知科学も、この認知革命によって生まれ、自然科学的な宗教研究だと謳っている。しかし藤井によれば、CSRは「知の変動」の下で成立してはいるが、CSRを創立した人々は主に人類学の影響の下で、認知科学や認知心理学に関心を持った宗教学や人類学、心理学などの研究者であり、革命的かつ跳躍的に誕生したのではなく、複数の分野が関わり合い徐々に発展していったと捉えている(一〇七頁)。初期の研究者であるローソンとマコーリーの「宗教的儀礼を生みだす普遍的能力」説、類似の宗教的観念が異なる社会において反復されるというボイヤーの「反直観的記憶」説、ホワイトハウスの「宗教性の二様態」説やその後の理論的展開を追い、CSRの大きな特徴は、宗教は人間の日常的で普遍的な認知的能力から生まれるという視点にあるとまとめている。また宗教は自然的(natural)と捉えるのも共通であり、認知科学の直観的思考と反省的思考に対応した「二重過程モデル」から、宗教は直観的で、ゆえに自然的であり、人間集団に普遍的な現象であること、神学は反省的思考から生みだされたものであるので、宗教とは区別されるべきという「宗教と神学の区別」が進んだという。

 第4章以降は、科学的宗教理論の特性、特徴をさらに詳細に解明する試みをしている。まず第4章「科学的宗教理論がもたらした論点」では、科学的宗教理論への批判や応答から、「普遍主義/個別主義」「説明/解釈・理解」「還元主義/非還元主義」の三つの二元的対立軸を設定して論点整理をするとともに、それぞれの立場の「宗教」と「科学」の概念を批判的に検討し、最後に科学的宗教理論の既存理論との共通性を明らかにしている。
 二元的論点においては、科学的宗教理論は普遍主義、説明アプローチ、還元主義の立場を取ることが明示され、論点整理というより科学的宗教理論の性格を明らかにする上で有益と思われる。科学的宗教理論における宗教概念の検討では、厳密に定義しているものは少ないと指摘し、「宗教と神学の区別」をすることで「宗教」が普遍的に存在する、または普遍的概念として使えることにもなる。これは否定したはずのエリアーデのスイ・ゲネリス概念とも通底し、マッカチオンはCSRもまた宗教をスイ・ゲネリスとして扱っていると批判している。また科学的宗教理論は「科学的」であることを自認しており、本章でも科学とは何かについて、客観性や一般化、説明、テスト可能性、還元などで解説し、科学概念の政治性や自己正当化などにも論及しているが、正直に言って不十分な印象である。

 第5章「科学的宗教理論が内包する反宗教思想」では、科学的宗教理論と宗教思想との関係のなかで、科学の発展が必然的に宗教の否定をもたらすという視点からの、科学的宗教理論と反宗教的思想の結び付きを扱っている。その代表であるドーキンスとデネットは進化生物学の発展によって宗教は否定されるとみなしているが、その背景には無神論的イデオロギーがあると分析している。
他方で科学の発展を肯定的に主張するものが、「宗教的ナチュラリズム」である。そこでは自然が崇拝対象とされ、語るべき神話として進化の物語が挙げられる。また宗教的ナチュラリズムにおける「宗教」は、超自然的なものへの信仰ではなく、人生に意味を与える価値体系だと考えられている。宗教的ナチュラリズムの事例は、科学を価値体系とした宗教が生まれうることを示していると指摘している。
 第6章「科学と共存する宗教思想」は、前章と対照的に、科学と宗教は共存が可能であるだけでなく、両者や相互に良い影響を与えうるとする主張を扱っている。冒頭で、(比較)宗教学と神学との関係をめぐっては長い論争の歴史を振り返り、国際宗教学宗教史学会の東京大会(一九五八年)やマールブルク大会(一九六〇年)で神学との決別をうたったが、その論争の背後にあった「科学的宗教研究」と「神学」との区別が八〇年代以降に再び注目されていると指摘。科学と宗教の関係については、科学と宗教との闘争は不可避とするドーキンスらの「対立」派、両者は異なった領域であるとするグールドなどの「独立」派、宗教は科学的知見を受け入れるべきとする「対話」派、両者は協力し合えば最終的に同一のものとなるというバーバーらの「統合」派の四類型をあげ、「対話」「統合」派に焦点をあてている。
 意外なことにCSRの研究者の中にも、CSRが特定の教派的神学となりうると主張するバレットがいるが、それは人間の通常の認知過程からうまれる宗教的観念を「自然宗教」と捉える宗教認知科学における宗教との親和性の産物とも言える。また神経科学の領域においても宗教体験と脳の活動状態を研究したニューバーグのように、宗教に誘引する生物学的・神経科学的機構が人間にはあると主張する「神経神学」、科学的知識を用いて宗教を正当化し、また現実生活において危機を回避したり、集団の団結を強化するなどの効用、利益を宗教に見いだす「効用自然神学」など、興味深い研究が紹介されている。

 最後の結論としては、以下の四つが主要な柱として述べられている。
①科学的宗教理論の背景にあるのは、動物と人間、物質と精神、自然科学と人文・社会科学という三組間の境界が消滅しつつある「知の変動」である。この変化の結果として、生物学や認知科学の観点から、人間の文化や社会の研究が行われるようになっていった。

②科学的宗教理論の理論的意義は、普遍主義・説明・還元主義をとることで既存の立場に異議を唱えている点にある。今後の宗教研究者は自分がいかなる立場であるかを明示することが必要になってきた。宗教的意義としては、宗教に対して必ずしも否定的ではなく、多様な態度が可能であり、宗教的ナチュラリズムや効用自然神学など新たな宗教思想が生み出されていることが注目される。

③科学や宗教の概念について、まず「科学」は、非常に多様な内容を含む規定しづらい概念であり、それを戦略的に用いる科学批判および反科学批判にはイデオロギー的要素がある。「宗教」は、主として理論に付随して形成される概念であるが、それが用いられる際には、常に社会との相互作用を伴っている。

④今後の研究の方向性としては、科学的宗教理論を用いた研究、理論研究と方法論上の議論、科学を対象化した研究の三つを提起できる。新たな研究対象や研究手法に向かって視野を広げ、同時にそれらへの批判的分析をも行うことで、今後の研究の可能性も大いに広がる。本書は、その可能性を示すものとして位置付けられる、と締めくくっている。

 以上、本書の概要を評者・中野が理解できる範囲で、一部補足しながらまとめた。評者はこの領域における急速な発展に衝撃をおぼえ、二〇一四年頃までは追跡していた(中野毅「学術動向 宗教の起源・再考――近年の進化生物学と脳科学の成果から」『現代宗教 二〇一四』(公財)国際宗教研究所、二〇一四年参照)。しかしその後は他の研究に追われ、著書や井上順孝氏、星川啓慈氏などの研究成果は収集しつつも遠ざかっていた。そのため各章の理解とまとめも十分ではないと思われるので、是非、直接ひもといて欲しいと願う。
 学び直しつつ本稿を書く過程で、評者が感じた問題点や願望を幾つか述べておきたい。まず、本書が焦点をあてている「科学的宗教理論」は、地球誕生以来の生物進化を研究してきた進化生物学、自然人類学、考古学、遺伝学や、動物や人間の身体メカニズムおよび言語・認知・意識・こころについて探求してきた言語学、実験心理学、情報科学、脳科学などの自然科学の近年における大きな発展が前提になっている。
 約一三七億年前に宇宙が誕生し、四六億年前に惑星・地球が生まれた。その後の長い年月を経ながら地球には生物が繁茂し、約七〇〇万年前にチンパンジーなどの類人猿とヒトの祖先である猿人とに分岐して進化が進み、二五〇万年前にホモ族が現れ、三〇万年前にいわゆるネアンデルタール人が出現し、二〇万年前にわれわれの直接の祖先である新人(ホモ・サピエンス)が登場した。この新人が約五万年前にアフリカ大陸を出て、世界各地へと移動し続け、それぞれの環境に適応しつつ地球上で繁殖し、今日の人類社会を形成するとともに、環境破壊まで引き起こすに至っている。この生物進化の傍らで、われわれが多様な環境下に生き延びるための集団の形成、その大規模化などの必要性から、コミュニケーション手段としての言語が発達し、驚異的な認知能力を身につけるようになった。これらの事実がいま解明されつつある。
 本書が焦点とした科学的宗教理論は、この生物進化過程の解明とそれを受けた認知科学の発展が、いわゆる「宗教」と称される文化領域の解明に挑戦を始めたものと言える。その諸理論の詳細を本書が整理したわけであるが、「理論研究」としたためか、前提となっている長い進化の過程が見えてこなく、またチョムスキーなどに始まる認知科学の発展過程が必ずしも明瞭でない点は残念であった。
 同様に様々な宗教研究理論の一つとして科学的宗教理論を取りあげ、既存の宗教学諸理論との関係や位置づけを行おうとした点は評価できるが、他方で、この「科学的」宗教理論のもつ衝撃・破壊力や重要性が相対化され、薄まってしまった印象を受ける。その一因は、「科学」とは何か、「科学的」宗教研究とは何かについての探求、記述がまだ十分でなく、結論の③にあるように、「科学」概念の多様性や背後のイデオロギー性と関係づけて相対化してしまったからと思われる。本書ではCSRの初期の研究者たちが、自分たちの研究は「科学的」とする点をいくつか抽出し(八六―八九頁など)、テスト可能性、つまり理論から引き出せる仮説と予測、それが正しいかを経験的にテストできることが要件だとして、実験心理学の手法で自説を検証したローソンやバレット、ボイヤーなどに言及してはいる。
 しかし、これまでも宗教学・比較宗教学の研究は「科学的」であるべきだとの主張は多くなされており、IAHR大会での神学との決別は、その典型的な事例である。この人文「科学」、社会「科学」における科学性と、ここでの科学的宗教理論における科学性は、同じなのか異なるのか。私見では、通常の人間による観察によって得られた自然的社会的文化的「事実」のみを基にして理論や仮説を組み立て、それを公開して、何度でも、また複数の研究者が同様に確認できる「事実」をもって仮説を検証するという意味での「テスト可能性」は同じである。しかしこれら人文・社会科学における宗教研究では、例えば「神は存在する」と信じる「人々」は社会的事実として確認できても、「神そのものの存在・非存在」は証明できない。
 本書が扱った科学的宗教理論は、自然科学的手法を駆使して、神などの主要な宗教的観念を生みだすのは人間の認知能力であることを明らかにし、「神の非存在」を証明しようとしていると言える。その意味では、科学的宗教理論と宗教との対話、統合が進むとしても、伝統的な神理解の側に大きな変更を要求するものである(芦名定道・星川啓慈編『脳科学は宗教を解明できるか?』春秋社、二〇一二年、五四頁)。自然宗教論や神経神学、効用自然神学なども、宗教の現世的利益または生物学的効用についての実証的データを提供してはいるが、それもあくまで「世俗的」に効用があることを示しているだけで、特定の宗教を神学的に正当化する論拠にはならない。
 表題である「科学で宗教は解明されるか?」との問いへの解答を、著者はいまだ躊躇している印象であるが、評者はイエスと考えている。「こころの理論」「心の仕組み」(ピンカー)なども含めた、さらなる探求を大いに期待している。

島田裕巳『性と宗教』(講談社現代新書、2022年1月刊)を読む2022年03月21日

島田裕巳『性と宗教』(講談社現代新書、2022年1月刊)を読む
                                 2022.3.14 中野毅

 宗教に関連する様々な領域において、旺盛な執筆活動を続けている島田裕巳氏であるが、古くから問題とされてきたにもかかわらず、何となく躊躇されてきた印象のある「性と宗教」について正面から切り込んだ一書を刊行したので読んでみた。

 ここでの性とは、文化的社会的に形成された性差としてのジェンダーはなく、行為としてのセックスであり、生物学的な性です。なぜ、それが問題となるかといえば、仏教では「不邪淫戒」を説き、妻帯しない出家(妻帯が常態化している日本は特殊)を尊重し、キリスト教ではカトリックの聖職者独身制などが知られていて、宗教では「禁欲」、すなわち性的欲望を抑えることが望ましいと宗教一般に考えられているという印象があるからである。その一方では、宗教界における性をめぐるスキャンダルが絶えない。それは何故なのか、宗教的規制が不十分なのか、もはや時代にそぐわないのかなど興味が尽きないテーマではある。

 本書では世界の主要な宗教、すなわちユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教、仏教、ヒンドゥー教、神道などを取りあげ、性的欲望をどのように規制しているかを比較しながら解説している。新書ながら、この大きな問題を包括的に捉えた点で、なかなか意欲的であり、傑作と言える。以下、筆者が関心を抱いた点を中心に紹介する。

第1章は「なぜ人間は宗教に目覚めるのか」と題して、人間が宗教によって禁欲を命じられているのは、性欲をもち、かつ他の動物が年に一度の繁殖期に性行為をし、子孫を残すのに対し、人間は一年中性欲をもようし、性行為を行う動物であることを出発点においている。この事は筆者も重要だと常々考えている。
 また人間が言語を発達させたことが、現実に存在しないものまで概念化し、その言葉が独り歩きを始め、神や仏など超越的存在を実在するかのような世界を生み出した。
 宗教心理学のジェームス、スターバックの研究から思春期に宗教的回心が起こることに注目しているが、それは主としてアメリカにおける福音主義キリスト教においてであること、日本やイスラム世界にはあり得ないとしている。
 本書のよさは、性についての態度を主要な宗教を比較しながら検討しているので、普段、比較宗教学などを教えていても見逃してしまう事を気づかせる点にある。その最たる事が、性を否定的に捉え、禁欲を是とするのはキリスト教と仏教の一部のみであるという事実である。宗教はおしなべて禁欲を説くものと思い込んでいたことが、誤りだと気づかされた。

第2章で主にキリスト教が性を否定的に捉える理由を解説している。それは「原罪」の考えがあるからで、その発想は同じ一神教でも、母体となったユダヤ教、そしてユダヤ教の影響を強く受けて成立したイスラム教にはない。しかもイエスの福音書とされるものやパウロの書簡にもなく、つまり初期キリスト教にもその発想はなかった。原罪論を強調するようになったのは、教父アウグスティヌス(354-430)の影響だという。彼はもとはマニ教徒だったが、愛欲生活に溺れた末にキリスト教に改宗し、原罪を強調するようになったという。人間は誰もが生まれながらにして罪を負っている。人は罪人であり、あるいは必ず罪をおかす存在だという原罪論は、自己を反省する契機にもなるが、人間性を否定することでもある。そのような原罪の教義が公式の教義になったのはAD529年のオランジュ公会議においてであり、イエスが死んでから約500年も後のことである(56頁)。その背景には、初期キリスト教には「イエス(神)の再臨」は間近く、この世の悪が裁かれる「最後の審判」が行われるという観念が強かったが、いつまで経っても神は再臨しなかった。そこで教会の存在意義を強調するため「原罪」を強調し、それを許す「贖罪」の権能を唯一保有していることを「七つの秘蹟」の保持者=キリスト教会であると宣言し、存在意義を示したのである。
 従って、その後は「贖罪」のための行為が重視され、十字軍への参加も贖罪のためとされ、また現在まで続いているカトリック教会における「告解」もそのためである。

 第3章、第4章では主に仏教を扱い、3章は戒律の復興運動に力を入れ、真言律宗の事実上の開祖として知られる叡尊(1201-90)が、実は「破戒僧」の子だったことから筆を進め、仏教は出家者を主たる担い手としているため五戒を基本に具足戒として細かい禁欲的戒律が定められており、日本でも「僧尼令」(養老2,718年)で僧坊に異性を止めることを禁止したが、日本仏教界では破戒が広く行われていたことを描いている。
 4章では原始仏典に遡り、スッタニパータに不殺生戒、不邪淫戒、不飲食戒など五戒が説かれているが、その理由はさほど明示されていない。それは釈迦以前のバラモンからの伝統でもあったためでもあろうが、仏教において「愛欲が人間苦の根本」であり、仏教教団における戒律制定の嚆矢をなすものはこの淫戒である等の説を紹介している。また仏教と並んで発展したジャイナ教においては不殺生戒と不邪淫戒が強く結びつき、妻との性交も女性器にいる微生物、細菌を殺す恐れがあるとして禁じる主張があるなど、その徹底ぶりには驚愕する(110-114頁)。

 しかし、このような傾向が宗教一般に見られるわけではないと主張するのが本書の特徴でもある。第5章では性行為に価値をおく宗教として道教をあげ、エリアーデの論を活用しながら房中術を解説し、それら性の技法がインドの左道タントリズムが開発したヨーガの影響を受けていると指摘している(123頁)。この左道タントリズムがヒンドゥーのシヴァ派の一派で性力(シャクティ)を重視しており、オーム真理教が説いた「クンダリーニの覚醒」へとつながっていくことも明らかにした。
 後半では、仏教における密教も性の快楽を肯定しているものとして説明し、中でも『理趣経』において性的欲望を全面的に肯定し、むしろ完全に清らかなものとされているという(131頁)。そしてこの理趣経を日本にもたらしたのが空海であり、最澄が貸して欲しいと求めたのに空海は断ったが、それは余りに過激な内容だったからだろうと興味深い説を述べている(132頁)。
 総じて、密教は顕教における禁欲的修行では真の悟りには達し得ないとして、顕教の考え方を完全に覆す方法による悟りをめざした宗教であるという。

 第6章でイスラムについて詳細の論じ、ユダヤ・キリスト教とならぶ一神教であるが、むしろユダヤ教の影響が強く、ユダヤの律法に似てイスラム法が重視され、原罪の教えはない。衆知のことだが創唱者ムハンマドは俗人であり、神の教えを広める預言者という位置づけであること、彼が神から受けた啓示がコーランに纏められ、彼の命令や生活における教えはスンナとしてイスラム教徒の生活において重要な意味を持つことなど整理されている。面白いのはムハンマドが性欲旺盛で9人の妻を持って、一晩で全てと交わったとか、性行為そのものについてタブーは見られないこと、ただ性交の後には精液が残っていないように「浄め」てから礼拝することなど、神の前での清浄が求められたことなどが指摘されている。
 信者がなすべき信仰告白や礼拝、断食、喜捨、巡礼の5つの宗教行為(5行)が定められているが、それらを実行すればキリスト教のように自らの罪深さを自覚することも求められないし、仏教のように煩悩を自覚する必要もない。

 第7章は日本仏教でも性を否定しない宗派として親鸞と浄土真宗の発展を取りあげている。親鸞について島田氏は『親鸞と聖徳太子』(角川新書)を書いている。結局、親鸞が妻帯した理由を本人は何処にもしるしてなく、聖徳太子から授かったとされる「女犯偈」も歴史的事実としての信憑性は弱い。ともかく事実として親鸞は女犯をし、恵信尼と結婚したことは、彼女の日記から明らかであり、公然と妻帯する親鸞の生き方が、後の真宗の発展に決定的な影響をあたえたとする。典型的なのが蓮如であり、死別によるのだが5回結婚し、13人の男子と14人の女子を儲け、このうち早逝したのは2人だけだった。蓮如が最後に子供をもうけたのは亡くなる前年に83歳の時だったというから驚きである。そして、これら男子は寺の開基となり、女子は寺などに嫁いで真宗のネットワークを拡げる上で大きく貢献したのが、浄土真宗発展の一大要因としたのは興味深い。かくして全国に門徒を拡げ、多くの寄進を集めて膨大な財力と権力を獲得していったことが、江戸時代においても僧侶妻帯が許された要因のようだ。

 第8章は中世に仏教と習合した神道では、性の問題はどう扱われるか検討している。何より面白かったのは冒頭で、日本の民俗学の泰斗たちの性への関係でした。柳田は性についてはまったく触れず、南方熊楠は強い関心をもち、少年と同辱した経験をもつという。折口信夫は同性愛者だった。
その折口が執筆した代表的論文に「大嘗祭の本義」(1930年)がある。天皇が代替わりをする最重要な儀式である大嘗祭の諸儀礼のなかで悠紀殿と主基殿に敷かれている褥に注目し、そこで天皇霊と性行為を行うと解釈したのである。筆者は単純に、そこにおいて天照大神と交わるという象徴的な行為を想像していたが、折口の説ではもっと生々しく、かつ男色ともとれる行為を考えていたのではないかというスキャンダラスな説を展開している(208頁)。そのほか古事記や本居宣長、平田篤胤などの解釈、源氏物語などをあげながら、日本の神道や伝統文化には性を抑圧しようという発想は認められないとしている。

 第9章は「なぜ処女は神聖視されるのか」というタイトルで、キリスト教を再び取りあげ、処女マリアのイエス・キリストの受胎ほどスキャンダラスで問題を多く含むテーマはないと論じている。初期キリスト教や福音書などではマリアのことは余り深く触れられていないが、アウグスティヌスの影響で「原罪」論が6世紀に公式の教義となったため、マリア、およびその受胎を教義上どのように扱うかが次第に問題となった。そしてマリアの受胎を「無原罪の御宿り」、すなわち神がマリアに宿った瞬間からマリアは全ての罪から免れた「無原罪」の存在になったとする説が誕生した。それは9世紀フランスのコルビー修道院長ラドベルトウスから始まり、12世紀のイングランドの神学者エアドルメルスは神学的に裏付けようとした。しかし、この「無原罪の御宿り」がカトリック教会の正式の教義になったのはかなり後の教皇ピウス9世の回勅(1854年)によってであり、その背景に19世紀のマリア崇拝ブームがあるという。筆者としては、このマリア崇拝ブームが何故起こったのかに、特に興味をもった。
 他方、イスラム教には原罪の観念はなく、性に対する禁忌はないが、ムハンマドは処女との結婚をより好ましいものとしていたこと、さらに2001年の同時多発テロの首謀者であったウサーマ・ブン・ラーディンが出したジハード宣言で「殉教者たちは天国に召され、72人の純粋なる楽園の処女たちと結婚できる」という一節を取りあげ、イスラム教でも処女を高く評価していること、処女への憧れが殉教としてのテロ行為まで引き起こした可能性も指摘している(後者への疑問は残るが)。しかし、イスラムでは特定の処女を聖人化したり崇拝することはない。
では何故、キリスト教ではマリア崇拝が起こったのか?島田氏は、イスラム教では神の慈悲深さが強調され、あらゆることを許してくれる存在だと繰り返し説かれるが、キリスト教の神やイエスは到底慈悲深いようには見えない。そこで登場したのがマリアだ。福音書ではほとんど語られていない彼女が、やがて聖母子像などのように彫刻や絵画で幼子イエスを抱く、優しく慈悲深い存在としてクローズアップされたのだという。こうしてイエスは後景に退いて「暇な神」(エリアーデ)になり、「父なる神、神の子イエス、母マリア」という新たな三位一体が形成されることになり、そのためにはマリアが処女であり、原罪を免れていることが重要だったという(243頁)。

 おわりにでは、全体の簡単な整理をした上で、「宗教は本質的に男性中心主義」であり、仏教は約2500年前、キリスト教は2000年前、新しいイスラム教でも1400年前に誕生したものである、それらの宗教と性の関係は現代にそぐわなくなったと指摘している。また人間の特異な性のあり方が、宗教という人間特有のものを生みだし、その力で性をコントロールしてきた。しかし現代での性のあり方は宗教がコントロールできなくなっている。性と切り離された宗教は、綺麗事になるだろうが、本質的なものではなくなっていくと結んでいる。

 新書なので簡単に紹介しておこうと思ったが、大きなテーマであり、各章の内容も極めて興味深いので予定以上に長くなった。しかし、要点や私が関心をもった点は整理できた。
 本書で特に注目したのは、性と宗教を論じる際に、人間の生物学的特徴として指摘される「性欲が一年中あり、常に性交が可能な点で他の動物とは大きく異なる」という事実、また言語の獲得が宗教の誕生に決定的な意義をもっているなどの指摘から始まっている点である。これらは評者(中野)が大学院時代に故・井門富二夫先生から教えられたアルノルト・ゲーレンの哲学的人間学、またその後の進化生物学などで展開された論であり、私も幾つか論考を書いている。関心のある方は以下を参照して欲しい。

1. 中野毅「人類進化と文化の形成 ─現代人間学考2─」『創価人間学論集』第4号、2011年3月、27-55頁。
https://soka.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=36531&item_no=1&page_id=13&block_id=68

2. 中野毅「進化生物学・認知科学の発展と宗教文化―人間学考3―」同前、第7号、2014年3月、1-22頁。
https://soka.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=36543&item_no=1&page_id=13&block_id=68

3. 「学術動向:宗教の起源・再考―近年の進化生物学と脳科学の成果から―」2014.3.4『現代宗教2014』)(公財)国際宗教研究所、251-285頁。http://www.iisr.jp/journal/journal2014/ 
(1、2の論文を簡潔に整理したもの)

 ゲーレンの主張は、人間以外の動物は特定の自然環境に身体的に適応しながら生きているが、人間は生物形態学から見れば、むしろ一定の自然環境に適応する上で必要な特殊器官(体毛や甲殻などの保護器官や牙などの攻撃器官等々)が欠けており、動物一般に見られる機械的な適応本能が欠けていると考えざるを得ない。その意味では人間はヘルダーの言うように本能の機能としては「欠陥生物」であるという。その代わりに、人間の頭脳は特殊化の極限に達しており、人間は頭脳を駆使して、未来を予見し、計画に基づいて現実を変化させる「行為」を遂行することができる。この「意識的な」行為によって、変化させられた、ないしは新たに作られた事実と、それに必要な手段との総体が「文化」である。人間は行為によって自然環境を変化させ、人為的に「形成された自然」圏、すなわち文化圏の中に生きるのである(ゲーレン, アルノルト, 1999年『人間学の探求』紀伊國屋書店、復刊版(1970年邦訳初版)、32, 36-38, 91,125頁)。
 その本能的欠陥動物としての最たる特徴が、常に性欲をもようし性行為を行う事である。そのため人口も爆発的に増加し、いまや全地球を覆うまでになった。この旺盛な性欲をコントロールするため様々な婚姻規制や親族構造を構築していったといえる。
 また「言語の発達」も人間文化の大きな特徴であり、言語によって情報や知識、智惠の伝達、蓄積、世代間の継承が可能になり、今日の複雑で巨大かつ多様な文化構造を生みだしていった。またその言語によって現実には実在しない神や仏などの超自然的なものをさす言語がうまれ、それが「言霊」などとして一人歩きしだすのも人間文化の特徴である。その意味で宗教は人間文化の典型的なものであり、人間の誕生とともに宗教も誕生したと言われる所以である。
  本書では、新書の限度を越えるからだろうが、このような理論的背景については語っていない。しかしそれらを前提にしつつ、「性」のコントールを宗教が担ったという視点で書かれている。宗教の一つの機能として、それは十分に言える。ただ、それならば、「禁欲」を表だって強調しないイスラム教やユダヤ教、その他も何らかの性的規制を行っているはずであり、それらの分析はまだ十分とは言えない。
 細かい点では疑問に思う点もいくつかある。例えば「イスラム教には、・・・独身の聖職者はまったく存在していません(97頁)」のような雑な既述も散見する。そもそもイスラム教には聖職者はいない。またイスラムが一般に性に開放的なので、過激な行動を促す方向に作用している(246頁)とは単純に言えない。また死海文書の研究からマリアによるイエス受胎は正式な結婚の前であったとか、イエスは毒殺されたのであり、磔刑は単なる見せしめであって、実際に生き返ったなどと実に興味深い研究をしたバーバラ・スィーリング『イエスのミステリー』(NHK出版、1993年)などに評者はいたく感心したが、これらイエス研究やキリスト教史についての先端に必ずしも触れていない点、学問的方法論が不明など疑問点や不満はあるが、それらは今後、専門家の諸氏からのコメントを待ちたいところではある。
 しかし冒頭にも記したように、諸宗教に関する該博な知識をもとにして、「性と宗教」について新書版にまとめ上げた島田裕巳氏の学力筆力に改めて感銘した。普段は見逃していた問題点を気づかせてくださり、本書はまことに有益であった。

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https://drive.google.com/file/d/1xpN475eI6500bCbFWAEysaOWUV5sG66d/view?usp=sharing

論文掲載「近代化・世俗化・宗教」2013年05月02日

中野毅「近代化・世俗化・宗教」『ソシオロジカ』第36巻1-2合併号、2012年3月20日、114-156頁。

http://hdl.handle.net/10911/3327