沖縄考201212 (1)波之上宮2014年12月24日

沖縄考2014.12.(1)波之上宮訪問

      2014年12月24日· · 沖縄県那覇市若狭1丁目25番11号

 2014年12月23日から27日まで、年末の沖縄を訪れました。
 24日に訪問した波之上宮。那覇市内の港を望む断崖上にある沖縄八社のうちのトップ(沖縄総鎮守・旧官幣小社)に位置づけられる神社。現宮司は渡慶次 馨 氏で、若いころ不思議な宗教体験をして神職の道を志し、國學院大學に学んで資格をとられたという。新年祝賀の準備でお忙しい中を、面会に応じていただき、境内も案内していただいた。また貴重な史料『沖縄縣神社庁史-設立二十年史』を貸していただき、心から感謝申し上げます。沖縄の神社の世界についての基礎を学ぶことができ、本土との相違がいくつもあることに気付きました。
 波之上宮の創建は古く、詳細は不明であるが、遥か昔の人々が海の彼方の海神の国(ニライカナイ)の神々に日々の風雨順和、豊漁と豊穣い祈る霊応の地が、この波之上の断崖絶壁で、ここを聖地、拝所としたのが始まりでないかとされている。現在も社殿裏の海に面する崖際に、海の西方の彼方を祈るための礎石が置かれている。その後、琉球王国が栄えた時代に琉球八社の制が整えられると、当宮がその第一の神社とされ、その地位は現在まで続いている。
 興味深いのは祭神で、主神はイザナミノミコト、ハヤタマヲノミコト、コトサカヲノミコトで、これらは熊野権現の神々である。相殿神として琉球の神・ヒヌカン(火の神)などが祀られている。縣護国神社以外の他の沖縄神社に共通してみられる特徴である。これらの神々が祀られるに至った経緯を調べえると、大和と琉球との興味深い事実が分かりそうである。
 本土復帰後の宗教法人としては、神社本庁を包括宗教法人とする被包括の単位法人になっていて、これは護国神社を除く、琉球八社は同じようである。

 波之上宮に関心を持ったのは、前回訪沖した際、沖縄県公文書館で占領下の登記資料を調べていた時、この神社が戦後の米統治下で境内地の返還をめぐって長い法廷闘争を行った事実を知ったからであった。その訴訟は本土復帰後に最高裁まで持ち込まれたが、結局、一部の土地は市のものになり、裏手の公園として整備されていた。
 今後、さらに勉強しなければならないことが、また山積みとなった。

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沖縄考201412 (2)普天満宮2014年12月25日

沖縄考2014.12.(2)普天満宮 沖縄県宜野湾市

 12月25日午前に訪れた宜野湾市の普天間基地のすぐ脇にある普天満宮。普天間宮とも記すが現在は、「普天満」と。前日、波之上宮の宮司さんが、本土復帰の諸事業を経験され知悉した方は唯一この普天満宮の宮司・新垣義夫氏と伺い、電話で連絡をとってくださったので、急遽、訪れた。初詣の諸準備で忙しいときに伺い、もっと時間があるときなら色々話が出来るのに残念と仰られたにも関わらず、2時間以上も時間をとって、当時の貴重なお話と裏手の普天満洞穴(市指定文化財)をも案内してくださった。ここでも感謝・感激でした。鍾乳洞の洞穴は御神体そのものでもあって、当神社の基であるが、考古学的にも琉球諸島の太古の成り立ちが分かる貴重な遺跡で、圧巻でした。
 この神社も琉球八社の代表的な存在で、創建は古く、普天満の洞窟に琉球古神道の神々(日の神、竜宮神・ニライカナイ神、普天満女神・グジー神など)を祀ったことに始まり、琉球王国の尚王時代(1450~60年)に熊野権現を合祀したとされている。沖縄の諸神社が、断崖から海の彼方の神(ニライカナイ)を拝したり(波之上宮)、洞窟での祈りや儀礼が基礎となって創建されたことも特徴の一つであることを学んだが、さらに南紀の熊野権現の神々(イザナミノミコトやハヤタマノミコトなど)を合祀していることも特徴で、歴史的由来を考えると誠に興味深い。
 新垣家は代々の宮司を勤めており、本土復帰に際して重要な仕事をされ、また復帰20周年には『沖縄県神社庁誌』の編集委員長を務めるなど、戦後の沖縄神社史において大切か方であった。お話から沖縄の神社界の歴史や現状など多方面にわたって知ることが出来た。
 本神社は、連絡組織としての沖縄県神社庁の一員であり、宗教法人としては神社本庁を包括宗教法人とする被包括の単位法人となっている。米占領期や本土復帰時の諸問題については、後日、整理して報告するつもりです。

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沖縄考201412 (3)沖縄県護国神社2014年12月27日

沖縄考2014.12(3)沖縄護国神社  那覇市奥武山44番地

                         2014年12月27日訪問

 12月27日(土)午前9:30に、今回の訪沖で最も関心を持っていた沖縄護国神社を訪れた。謂うまでもなく、沖縄県護国神社は、県出身の陸海軍軍人軍属にして戦死者または戦病死者、公務に起因した死去者にして、東京の別格官幣社・靖国神社に合祀された祭神を慰霊宣揚するために、昭和15年7月1日創立許可を得、同日、明治27年勅令第22号第1条第1項の規定により沖縄県護国神社と指定されたことに始まる神社である。琉球八社など他の沖縄の神社とは大きく性格を異にしている。この神社が米占領期および本土復帰時にどのとうな対応を迫られて今日に至っているかを知りたいと考えて訪問した。
 応対してくださった宮司・加治順人氏からは、同じく多忙な中を極めて貴重なお話を伺えたのみでなく、貴重な史料『沖縄県護国神社のあゆみ』(平成12年3月27日発刊)を寄贈していただいた。重ねて深謝申し上げます。加治宮司はかつて皇學館大學の専攻科で白山芳雄教授のもとに学び、神職の資格をとった方であり、白山氏は彼を「弟子」とまで呼んでいる。
 今回の訪問で、本神社が他県の護国神社と重要な点で異なる独自性を持っていることが分かった。その第一は、祭神である。靖国および「県の靖国」とも呼ばれる各県の護国神社は、明治時代に招魂社と称した時以来、日本帝国軍人・軍属の戦没者を英霊として祀ってきた。沖縄県護国神社も戦前は同じであったが、昭和20年前半の凄烈な米軍との地上戦で護国神社の社殿等も焼失したが、昭和34年の仮社殿復旧後の祭神合祀で沖縄出身の軍人軍属の戦没者、および他県出身の戦没者を、さらに昭和40年の秋季例大祭では本大戦で犠牲となった沖縄出身一般住民、遭難学童および文官関係戦没者のすべてを祀ったのである。加治宮司も、「平和の礎」のように外国人の慰霊まではしていないが、一般住民の犠牲者を祀っている点が、本神社の特徴であると強調されていた。こうした方向性があったからこそ、社殿復興にあたって、有名な「学童1セント募金」に象徴されるような沖縄住民の幅広い支持を受けることができたのかと理解することができた。 
 第二は、宗教法人としての特徴である。沖縄県護国神社は本土復帰後に日本の宗教法人法の下で「単立宗教法人」となった。つまり他県の護国神社の大半は包括宗教法人「神社本庁」の「被包括法人」となったが、沖縄と京都府の護国神社のみが、独立した各県所轄の「単立宗教法人」となって、現在に至っている。この事実も、ほとんど知られていない。その理由として挙げられたのは、前述の祭神にも明らかなように、単なる護国神社ではなく、すべての戦没者の「慰霊の施設」としての独自性を保ちたかったことにあるという。
 宗教法人としてもう一つの特質は、法人の代表役員に他の神社では神職が就任しているが、本護国神社の代表役員は一般人がなっており、昭和48年12月18日に屋良朝苗沖縄県知事から認証を受けた「沖縄県護国神社」の初代代表役員は具志堅宗精氏である。神職は11人の責任役員の一人として登録され、加治現宮司の父・加治順正氏が事務局長として責任役員の一人となっている。これらの責任役員によって理事会が構成され、代表役員は会長と呼称し、神職は常務理事となる。
 このような役員体制は日本の宗教界においては独特の形態であり、キリスト教の長老派教会に類似した形態である。神職は理事会によって雇われることになる。この点においても、沖縄護国神社は神職・宮司中心のいわゆる神社ではなく、一般の、または「県の」慰霊施設でありたいという意思が垣間見える。

 沖縄県護国神社の復興の歴史は、複雑であった。本土防衛のための凄惨な地上戦での敗北、その後27年間の米統治下においても「宗教団体法」が存続したことにより、各神社は法人格を与えられることもなく不安定なままに放置された。昭和30年代に入って本土の靖国神社国家護持運動の展開に応じる形で、沖縄でも護国神社復興をめざす動きが起こり、昭和32年10月16日「靖国神社奉賛会沖縄地方本部」が結成された。昭和34年12月23日に、それは「沖縄戦没者慰霊奉賛会」と改称し、翌年には財団法人として許可を受けた。その翼賛会の目的の一つに「護国神社の造営」を盛り込んだが、琉球政府から宗教目的は法的にそぐわないという指導があったようで、それを受けて、昭和36年8月28日「沖縄県護国神社復興期成会」という社団法人を別に組織して、護国神社の復興を期すこととなった。
 加治順正氏は、琉球政府の職員として当初の慰霊奉賛会に派遣されたが、その後、神社復興期成会の事務局長として、また復帰後の宗教法人・護国神社の責任役員兼事務局長として、神社再建・復興に長年わたって尽力された。
 以上、伺った話を中心に紹介と記録メモとして記した。今後、さらに精査していきたい(続)。

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