世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への解散命令請求についての私見 ― 2023年10月30日
文部科学省による今回の世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への解散命令請求(2023年10月12日)は、文化庁宗務課が宗教法人法における質問権を行使して、民事訴訟案件の精査、被害者などからのヒアリング、被害者救済に携わっている弁護団などからの情報収集など、時間をかけて判断材料を収集し、慎重に検討した結果であると考え、その判断を尊重する。最終的には裁判での決定を待たなければならないが、行政府としては、旧統一教会は宗教法人としての資格に欠けると判断したことは重大なことである。宗教法人でなくなったとしても宗教活動は続けられるが、宗教団体としての適格性、適切性への疑問が公的についたことになる。今後は、解散命令が実際になされた場合に備えて、教団財産の海外移転や国内移転が違法になされないような措置を早急に進めることが、政治の責任となる。国内の関連団体への財産移転も厳しく監視されなければならないが、休眠宗教法人を買い取り、そこへ贈与する手法などもあり得るので、まさに要注意である。
今回の請求は、従来の要件であった教団や幹部の刑事事件だけでなく、民法の不法行為にまで拡げて検討したことが重要だ。これは解散命令請求の要件を低くしたことになり、今後、同様の命令が出しやすくなった。しかし、この点は両義的だ。宗教法人法の主たる目的が「信教の自由」を法的に保護、担保するために法人格を付与する点にあったが、1995年にオウム真理教事件を受けて改正された同法には報告徴収・質問権が導入され、国による管理が強化され、今回の事例によって宗教法人法の性格がさらに変化し、国による監督権限の強化に繋がりかねない。宗教法人の自立的運営に行政が介入しやすくなる前例となった。その点を強く懸念するが、今回は2009年のコンプライアンス宣言後も問題が組織的に継続していることを確認した上での判断だと評価する。
問題は、この請求のために集めた材料や判断基準が非公開、不明であることであり、裁判所での審理も非公開で行われる。信教の自由が侵害されないためにも、裁判の公開、主たる判断資料の公開が望ましい。また安倍晋三・元首相はじめ自民党などの議員と旧統一教会との関係が今回の事件を契機に白日の下にさらされ、関係した党や議員は関係を清算するとしたが、実際は曖昧なままである。ゆえに、この請求をもって問題に蓋をしたり、関係議員の言い訳材料となってはならない。1980年代のいわゆる霊感商法が大きな問題になったとき、なぜ適切な捜査、規制ができなかったのか、それをストップさせた政治との繋がり、さらに今回、民法の不正行為にまで拡げて解散命令請求に持ち込んだ裏にある政治的思惑なども、引き続き解明されなければならない。
宗教団体を法令などで規制できるのは子供や他者への人権侵害や過度の献金による家庭崩壊などの外形的事実であり、今回の請求は、その外形的事実における過度な違法性は、たとえ宗教団体であろうと認められないことを明確にした。旧統一教会のような新宗教は、教団の主たる収入を信徒の寄附、献金に依存する度合いが高いので、借金による献金や生活保護世帯など生活弱者への献金強要などがあってはならない。伝統的な仏教寺院においても、過度な布施や戒名料の請求、開運商法や宗教法人売買などに関与している例もあり、集金の適切なあり方を宗教界全体が常に問い直す必要がある。
「政教分離」「信教の自由」を謳う現憲法下では、司法や行政は宗教的信念や教義の規制・監督には踏み込めない。しかし高額な献金をすれば先祖の怨念が解かれるとか、先祖の霊が成仏する、または宿命が転換できるなどを宗教的教義として主張する集団には、国民自身や社会が賢明な判断力をもって対処、対処しなければならないのはいうまでもない。献金によって救済される宗教など、宗教の名に値しないと筆者個人は考えている。
関連情報
【ノーカット】旧統一教会への解散命令請求を決定 盛山文科大臣の臨時会見(2023/10/12)ANN/テレ朝
https://www.youtube.com/watch?v=N3-u-BqjpBI
NHKニュース 2023.1013
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231013/k10014223981000.html
解散命令請求に対する家庭連合(旧統一教会)の見解
https://ffwpu.jp/news/4905.html
解散命令請求に対する各宗教団体の態度
2023年10月12日 朝日新聞デジタル
文部科学省が12日、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の解散命令を東京地裁に請求することを表明したのに対し、他の宗教団体からは、賛否様々な意見が出た。
日本基督教団の担当者は「解散命令請求には反対」としたうえで、「旧統一教会の問題性は重々承知しているが、旧統一教会やその政治団体である国際勝共連合と自民党などとの癒着による根本的な問題が全く明らかにされていない。一方の組織のみを解散させるというのは目くらましで、宗教団体だけが反社会的であるという判断は、国家権力による宗教介入だ」と訴える。
また、質問権の行使や解散命令請求の流れが不明瞭で、質問や回答も公開されず、「密室裁判」のような形で進められていると指摘。「これのどこに信教の自由があるのか。信教の自由は、思想信条の自由、表現の自由、あらゆる自由と繫(つな)がっていることであり、『悪い宗教』『悪い考え』『悪い表現』が誰によって、どのように規定されてゆくのかを考えると、強い危惧を覚える」とした。
幸福の科学も、解散命令請求には反対の立場。「安倍元首相を銃撃した殺人事件という個人の犯罪を、宗教の問題にすり替えている」と批判。「オウム事件のような宗教側の重大な『刑法上の組織犯罪』ではないにもかかわらず、解散請求がなされるのであれば、憲法で保障された信教の自由の侵害であり、事実上の宗教弾圧である。これを機に『民法上の不法行為』として適用される範囲が不当に拡大され、政府が宗教団体を恣意(しい)的に弾圧できるようになる恐れがある」と指摘する。
曹洞宗は「解散命令請求については反対、あるいは慎重を期すべきだ」とし、「裁判所から解散命令が出ても法人が解散されるだけで、旧統一教会の信者たちの宗教行為も、2世信者被害も止めることができない。宗教法人として義務付けられる役員名簿や財産目録、収支計算書の提出も必要なくなり、文化庁が調査権を行使することもできなくなる」などと指摘。
「被害にあわれた方々への補償、旧統一教会によりどころや居場所を求めている信者たちへの新たな受け皿の提供、2世信者らへの寄り添い支援も求められている。世間全体で信者の方々を責めれば、信仰心が激化し、さらなるカルト化を引き起こす可能性が高くなる。解散命令を請求し、実行したのみでこの問題を終わらせてしまうことは避けるべきだ」とした。
一方、臨済宗妙心寺派は「宗教法人は人々の不安や生活に寄り添った活動を行うべきだが、旧統一教会は高額な献金問題など社会的に看過できない問題を起こした」と指摘。「被害を訴える人が一定数存在し、7回の質問に対して不誠実な回答であったという報道もある。回避の機会があったにもかかわらず、それを怠ったことが事実であれば、解散命令請求はやむを得ない。信教の自由は憲法で決められた国民の権利だが、だからと言って公共の福祉に反し、何をしても良いというわけではない。どの宗教を信じるかは個人の権利として保障されるべきだが、宗教法人の解散命令請求が信教の自由の侵害になるとは一概に言えない」とした。
創価学会は「解散命令請求の妥当性についての回答は控えたい」としたうえで、「今回の請求に至るプロセスは信教の自由に配慮したものだと認識しているが、憲法で保障された信教の自由を厳守するという観点から、宗教に対する公権力の権限行使は常に慎重であるべきだと考える」とした。
日蓮宗は「解散命令請求は政治的判断であって、宗教教団が見解を示すものではない」とし、「質問権の行使については一定の理解を示すが、宗教界との十分な議論はなされていないと感じている。信教の自由は保障されるべきである」とコメントした。
今回の請求は、従来の要件であった教団や幹部の刑事事件だけでなく、民法の不法行為にまで拡げて検討したことが重要だ。これは解散命令請求の要件を低くしたことになり、今後、同様の命令が出しやすくなった。しかし、この点は両義的だ。宗教法人法の主たる目的が「信教の自由」を法的に保護、担保するために法人格を付与する点にあったが、1995年にオウム真理教事件を受けて改正された同法には報告徴収・質問権が導入され、国による管理が強化され、今回の事例によって宗教法人法の性格がさらに変化し、国による監督権限の強化に繋がりかねない。宗教法人の自立的運営に行政が介入しやすくなる前例となった。その点を強く懸念するが、今回は2009年のコンプライアンス宣言後も問題が組織的に継続していることを確認した上での判断だと評価する。
問題は、この請求のために集めた材料や判断基準が非公開、不明であることであり、裁判所での審理も非公開で行われる。信教の自由が侵害されないためにも、裁判の公開、主たる判断資料の公開が望ましい。また安倍晋三・元首相はじめ自民党などの議員と旧統一教会との関係が今回の事件を契機に白日の下にさらされ、関係した党や議員は関係を清算するとしたが、実際は曖昧なままである。ゆえに、この請求をもって問題に蓋をしたり、関係議員の言い訳材料となってはならない。1980年代のいわゆる霊感商法が大きな問題になったとき、なぜ適切な捜査、規制ができなかったのか、それをストップさせた政治との繋がり、さらに今回、民法の不正行為にまで拡げて解散命令請求に持ち込んだ裏にある政治的思惑なども、引き続き解明されなければならない。
宗教団体を法令などで規制できるのは子供や他者への人権侵害や過度の献金による家庭崩壊などの外形的事実であり、今回の請求は、その外形的事実における過度な違法性は、たとえ宗教団体であろうと認められないことを明確にした。旧統一教会のような新宗教は、教団の主たる収入を信徒の寄附、献金に依存する度合いが高いので、借金による献金や生活保護世帯など生活弱者への献金強要などがあってはならない。伝統的な仏教寺院においても、過度な布施や戒名料の請求、開運商法や宗教法人売買などに関与している例もあり、集金の適切なあり方を宗教界全体が常に問い直す必要がある。
「政教分離」「信教の自由」を謳う現憲法下では、司法や行政は宗教的信念や教義の規制・監督には踏み込めない。しかし高額な献金をすれば先祖の怨念が解かれるとか、先祖の霊が成仏する、または宿命が転換できるなどを宗教的教義として主張する集団には、国民自身や社会が賢明な判断力をもって対処、対処しなければならないのはいうまでもない。献金によって救済される宗教など、宗教の名に値しないと筆者個人は考えている。
関連情報
【ノーカット】旧統一教会への解散命令請求を決定 盛山文科大臣の臨時会見(2023/10/12)ANN/テレ朝
https://www.youtube.com/watch?v=N3-u-BqjpBI
NHKニュース 2023.1013
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231013/k10014223981000.html
解散命令請求に対する家庭連合(旧統一教会)の見解
https://ffwpu.jp/news/4905.html
解散命令請求に対する各宗教団体の態度
2023年10月12日 朝日新聞デジタル
文部科学省が12日、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の解散命令を東京地裁に請求することを表明したのに対し、他の宗教団体からは、賛否様々な意見が出た。
日本基督教団の担当者は「解散命令請求には反対」としたうえで、「旧統一教会の問題性は重々承知しているが、旧統一教会やその政治団体である国際勝共連合と自民党などとの癒着による根本的な問題が全く明らかにされていない。一方の組織のみを解散させるというのは目くらましで、宗教団体だけが反社会的であるという判断は、国家権力による宗教介入だ」と訴える。
また、質問権の行使や解散命令請求の流れが不明瞭で、質問や回答も公開されず、「密室裁判」のような形で進められていると指摘。「これのどこに信教の自由があるのか。信教の自由は、思想信条の自由、表現の自由、あらゆる自由と繫(つな)がっていることであり、『悪い宗教』『悪い考え』『悪い表現』が誰によって、どのように規定されてゆくのかを考えると、強い危惧を覚える」とした。
幸福の科学も、解散命令請求には反対の立場。「安倍元首相を銃撃した殺人事件という個人の犯罪を、宗教の問題にすり替えている」と批判。「オウム事件のような宗教側の重大な『刑法上の組織犯罪』ではないにもかかわらず、解散請求がなされるのであれば、憲法で保障された信教の自由の侵害であり、事実上の宗教弾圧である。これを機に『民法上の不法行為』として適用される範囲が不当に拡大され、政府が宗教団体を恣意(しい)的に弾圧できるようになる恐れがある」と指摘する。
曹洞宗は「解散命令請求については反対、あるいは慎重を期すべきだ」とし、「裁判所から解散命令が出ても法人が解散されるだけで、旧統一教会の信者たちの宗教行為も、2世信者被害も止めることができない。宗教法人として義務付けられる役員名簿や財産目録、収支計算書の提出も必要なくなり、文化庁が調査権を行使することもできなくなる」などと指摘。
「被害にあわれた方々への補償、旧統一教会によりどころや居場所を求めている信者たちへの新たな受け皿の提供、2世信者らへの寄り添い支援も求められている。世間全体で信者の方々を責めれば、信仰心が激化し、さらなるカルト化を引き起こす可能性が高くなる。解散命令を請求し、実行したのみでこの問題を終わらせてしまうことは避けるべきだ」とした。
一方、臨済宗妙心寺派は「宗教法人は人々の不安や生活に寄り添った活動を行うべきだが、旧統一教会は高額な献金問題など社会的に看過できない問題を起こした」と指摘。「被害を訴える人が一定数存在し、7回の質問に対して不誠実な回答であったという報道もある。回避の機会があったにもかかわらず、それを怠ったことが事実であれば、解散命令請求はやむを得ない。信教の自由は憲法で決められた国民の権利だが、だからと言って公共の福祉に反し、何をしても良いというわけではない。どの宗教を信じるかは個人の権利として保障されるべきだが、宗教法人の解散命令請求が信教の自由の侵害になるとは一概に言えない」とした。
創価学会は「解散命令請求の妥当性についての回答は控えたい」としたうえで、「今回の請求に至るプロセスは信教の自由に配慮したものだと認識しているが、憲法で保障された信教の自由を厳守するという観点から、宗教に対する公権力の権限行使は常に慎重であるべきだと考える」とした。
日蓮宗は「解散命令請求は政治的判断であって、宗教教団が見解を示すものではない」とし、「質問権の行使については一定の理解を示すが、宗教界との十分な議論はなされていないと感じている。信教の自由は保障されるべきである」とコメントした。
by 中野毅の朝風呂 [政治社会問題] [宗教全般・宗教法人関連] [コメント(0)|トラックバック(0)]
麻原彰晃らの死刑執行について断想 ― 2018年07月28日
オウム真理教元教祖・麻原彰晃こと松本智津夫(63歳)ほかの死刑執行に想う
2018年7月6日(金)午前、松本智津夫ほか7名の死刑が執行された。また7月26日には6名の死刑が執行され、オウム関連の事件で死刑が確定した13人の元幹部全員が執行された。この執行をマスコミを利用した公開処刑であるとか、首謀者以外の処刑は遺憾、また死刑制度そのものに反対するなど様々な意見が噴出している。死刑制度の是非は別問題なので、ここでは考えないが、松本智津夫が全ての凶悪事件の首謀者なのだから、彼のみの死刑で十分であり、他の12名は彼に従ったばかりに人生を狂わせた、むしろ被害者であるかのような論調も散見される。果たして、そうであろうか?
長年、宗教社会学に携わった者として、次の点はほとんど議論されていないので、若干記しておきたい。Max Weber以来の「カリスマ論」において重要な点は、1.カリスマの成立にはカリスマ的人物の資質と、それを承認する人々や集団の存在が不可欠であり、それとの相互行為によって形成されるという社会学的メカニズムが存在すること。2.カリスマによる支配はウェーバーの「支配の諸類型」の一つであるが、いずれも「支配する側」の「支配への欲求」と「支配される側」の「支配の承認」と「自発的服従」が必要であること。3.カリスマ的人格の成立には、リップの言う「スティグマ化⇒自己スティグマ化⇒カリスマ化」という三段階での分析が有効である、などである。ここでは1.と2.から考えてみる。
松本智津夫が「オウム神仙の会」を立ち上げる以前から、盲目にもかかわらず(片目は視力1.0あったという指摘もあり、事実なら全盲ではない)、または盲目であるが故に並外れた運動能力など特殊とも言える能力を示していたことは、様々に語られている。人間には普段は見えない様々な潜在能力をもっていることは事実であり、特に障害を抱える人間には健常者にない鋭い感覚や観察力等を持つ可能性は十分にある。彼が、そのような尋常でない能力をもっていたことは事実であろう。その意味で、下記の熊田一雄氏の主張は参考になる。
「オウム真理教について、私が皆さんの意見に付け加えることはあまりありませんが、おそらく知られていないエピソードをひとつ書いておきます。
私が昔体を診てもらっていたリブ系の女性整体師さんー上野千鶴子さんも診ていましたーは、ヨガもしていたのですが、彼女によると、麻原がオウム神仙の会を始める以前から、松本智津夫の名前は、日本のヨガ関係者の間で「天才が出現した」として知られ渡っていたそうです。整体師さんも、評判を聞いて、見学に行ったそうです。「本物の天才だった」と評していました。運動神経が人間離れしていたのだそうです。
麻原が特殊な才能を持っていたことをふまえないと、オウム真理教事件は理解できないと思います。」(熊田一雄 facebook, 20180712)
しかし、彼がどんなに強い能力をもち、それを示していたとしても、松本智津夫の能力を承認し、賛嘆する人々が集まり、ある規模の集団が形成されなければ、彼はカリスマ的存在にはならないし、それによる支配も成立しない。「神仙の会」の頃、また「オウム真理教」形成の初期の頃は、彼のいわば超能力を自分も身につけたいと願望する人々、さらにはその能力によって新たな自分を発見・開発したいと願う人々が集ってきたに相違ない。こうして初期のカリスマ的支配による小集団が形成された。
この段階では、グルと呼ばれた松本と弟子たちは修行や鍛錬によって相互に獲得した能力を承認しあい、より高い段階を目ざす緩やかな競争が始まった。吉永進一氏の言葉を借りれば、それは「教祖と弟子の幸せな時間」だっただろう。しかし、この幸せの時間は長くは続かず、グルはグルで自分のより高い能力を示そうとし、それに対して弟子は自分が最も熱心で忠実な弟子であること、グルの教えを正しく理解し信じていること、忠誠心が強いことなどをますます示そうとする。その過程で自分の有する高度な科学的知識や医学的、または法律上の知識や技法をもって忠誠心を示そうとするなど、師匠を神秘化・カリスマ化する「ごますり」で弟子としての自分の存在価値を示そうとする。こうした相互の承認し合いの競争行為によってグルはますますカリスマ化され、弟子たちはそのカリスマの弟子であることに喜びをみいだし、弟子相互も一番弟子たらんと競争しだす。グルは弟子どもの競争をさらに煽ることもままあっただろう。こうしたスパイラルが「暴走の構造」を生み出していったと考えられる。それは、どこかの若手社会学者がしたり顔で「忖度」があったなどと言っていたが、そんな程度のものではない。
松本がヨガ修行者として、ヨガ修行法や仏教の知識において、また人間観察力などで他の弟子たちより抜きんでていたとしても、サリンやVXガス、その他の武器について、ましてやその製造法について知っていたはずはない。それらの知識や使用効果について弟子どもがせっせとご注進し、よし、それを使えば警察の捜査を攪乱できるぞ、それがハルマゲドンの始まりだ!などと掛け合ううちに、どんどん暴走していったと考えられる。松本が「弟子が暴走した」などと呟いたというが、ある面では真実かも知れない。しかし、それに乗っかり、自らも暴走したのであるから、その責任は重い。
1991年9月8日の「朝まで生テレビ」に出演した麻原彰晃こと松本智津夫の映像と話を改めて観たが、かれの科学に対する考え方は、素朴実証主義とでもいうレベルで、「ある公式を実験や体験によって何度も確認できれば、それが真理だ」というものである。戦後発展した他の宗教団体にも自分たちの主張は「科学的」だと述べていた教団が幾つかあったが、それと似たような程度であったことからも、上記のことは言えそうである。
もちろん、数々の殺人事件やサリン散布事件の最終決定、またその決定を宗教的な言説で正当化し、弟子たちに有無を言わせずに実行させた最終責任が松本智津夫にあることは言うまでもない。その意味で、彼が首謀者として死刑になったことは当然である。しかし同時に、松本一人でこれだけの集団的暴走を行いえたのではない。彼をカリスマ化し、そのカリスマに自ら従って集団として暴走させた責任は、彼の側近たちにもある。その意味で、側近たちの処刑が同時に行われたことに意義がないわけではない。
松本は「自分は修行によって最終解脱に達した」と語ったというが、解脱したと確信しようが、何かの生まれ変わりと主張しようが、所詮は人間であることに変わりはない。人間個人の間で能力の多様性や差はあり、ある人物が平均的な人間の能力を超えた何かをもつことはあるだろうが、だからといって自然界に生きる人間であることに変わりはない。換言すれば、自然界の物理化学的法則を越えた存在であり得るはずはない。「空中浮揚」についても、当初からトリック写真だと見抜いていた人もいたし、私もいかがわしいと思っていた。ヨガ的修行によって結跏趺坐したまま少々飛び跳ねることは出来る。それを週刊プレイボーイのカメラマンがタイミング良く撮った写真を大々的に活用して超能力だと宣伝し、それを三流メディアが面白おかしく報道しあい、それに乗せられたり、憧れたりした若者たちによって、彼のカリスマ性が捏造されていったに過ぎない。
人間は生物進化の過程で様々な能力を発展させてきた。ある種の神秘的体験、宗教的体験といわれる経験をする能力をも発展させ、あたかも霊界や超越的世界、死後の世界に行ったなどと、それら超自然的世界が実在するかのような感覚にとらわれることがある。しかし、それは人間の幻覚体験であって、そのような世界は実在しない。26日に死刑となった元信者・広瀬健一氏の手記「学生の皆さまへ」が公開されたが、彼が麻原の説く宗教的世界に飲み込まれていった過程を生々しく語っている。是非、多くの人に読んでもらいたい。 http://religion.sakura.ne.jp/religion/aum/hirose.pdf
人間には優れた面と同時に唾棄すべき面を、誰でもがもっている。人間には成功もあれば失敗もある。どんな優れた人物でも間違うことはある。善き人間は常に自己反省を忘れず、間違いを犯した際にはきちんと認めて修正していける人間である。優れた指導者は、弟子や自分の組織が暴走し始めたり、間違った方向に動き出したなら、それを身をもって止めたり、方向を変えられる人物である。松本は、その両方の面で失格であった。
私たちがこの事件をとおして学ばなければならないことは、特定の人間を神秘化したり、全知全能のごとく見なしたり、間違いのない絶対者のごとくカリスマ化することの危険性である。カリスマ的人物への盲信・盲従は危険である。そのような存在には常に懐疑の目を向けることが必要なのである。
特に、宗教現象や宗教運動を学問的に、または(人文また社会)科学的に研究する宗教学者であるなら、尚更であろう。
2018年7月6日(金)午前、松本智津夫ほか7名の死刑が執行された。また7月26日には6名の死刑が執行され、オウム関連の事件で死刑が確定した13人の元幹部全員が執行された。この執行をマスコミを利用した公開処刑であるとか、首謀者以外の処刑は遺憾、また死刑制度そのものに反対するなど様々な意見が噴出している。死刑制度の是非は別問題なので、ここでは考えないが、松本智津夫が全ての凶悪事件の首謀者なのだから、彼のみの死刑で十分であり、他の12名は彼に従ったばかりに人生を狂わせた、むしろ被害者であるかのような論調も散見される。果たして、そうであろうか?
長年、宗教社会学に携わった者として、次の点はほとんど議論されていないので、若干記しておきたい。Max Weber以来の「カリスマ論」において重要な点は、1.カリスマの成立にはカリスマ的人物の資質と、それを承認する人々や集団の存在が不可欠であり、それとの相互行為によって形成されるという社会学的メカニズムが存在すること。2.カリスマによる支配はウェーバーの「支配の諸類型」の一つであるが、いずれも「支配する側」の「支配への欲求」と「支配される側」の「支配の承認」と「自発的服従」が必要であること。3.カリスマ的人格の成立には、リップの言う「スティグマ化⇒自己スティグマ化⇒カリスマ化」という三段階での分析が有効である、などである。ここでは1.と2.から考えてみる。
松本智津夫が「オウム神仙の会」を立ち上げる以前から、盲目にもかかわらず(片目は視力1.0あったという指摘もあり、事実なら全盲ではない)、または盲目であるが故に並外れた運動能力など特殊とも言える能力を示していたことは、様々に語られている。人間には普段は見えない様々な潜在能力をもっていることは事実であり、特に障害を抱える人間には健常者にない鋭い感覚や観察力等を持つ可能性は十分にある。彼が、そのような尋常でない能力をもっていたことは事実であろう。その意味で、下記の熊田一雄氏の主張は参考になる。
「オウム真理教について、私が皆さんの意見に付け加えることはあまりありませんが、おそらく知られていないエピソードをひとつ書いておきます。
私が昔体を診てもらっていたリブ系の女性整体師さんー上野千鶴子さんも診ていましたーは、ヨガもしていたのですが、彼女によると、麻原がオウム神仙の会を始める以前から、松本智津夫の名前は、日本のヨガ関係者の間で「天才が出現した」として知られ渡っていたそうです。整体師さんも、評判を聞いて、見学に行ったそうです。「本物の天才だった」と評していました。運動神経が人間離れしていたのだそうです。
麻原が特殊な才能を持っていたことをふまえないと、オウム真理教事件は理解できないと思います。」(熊田一雄 facebook, 20180712)
しかし、彼がどんなに強い能力をもち、それを示していたとしても、松本智津夫の能力を承認し、賛嘆する人々が集まり、ある規模の集団が形成されなければ、彼はカリスマ的存在にはならないし、それによる支配も成立しない。「神仙の会」の頃、また「オウム真理教」形成の初期の頃は、彼のいわば超能力を自分も身につけたいと願望する人々、さらにはその能力によって新たな自分を発見・開発したいと願う人々が集ってきたに相違ない。こうして初期のカリスマ的支配による小集団が形成された。
この段階では、グルと呼ばれた松本と弟子たちは修行や鍛錬によって相互に獲得した能力を承認しあい、より高い段階を目ざす緩やかな競争が始まった。吉永進一氏の言葉を借りれば、それは「教祖と弟子の幸せな時間」だっただろう。しかし、この幸せの時間は長くは続かず、グルはグルで自分のより高い能力を示そうとし、それに対して弟子は自分が最も熱心で忠実な弟子であること、グルの教えを正しく理解し信じていること、忠誠心が強いことなどをますます示そうとする。その過程で自分の有する高度な科学的知識や医学的、または法律上の知識や技法をもって忠誠心を示そうとするなど、師匠を神秘化・カリスマ化する「ごますり」で弟子としての自分の存在価値を示そうとする。こうした相互の承認し合いの競争行為によってグルはますますカリスマ化され、弟子たちはそのカリスマの弟子であることに喜びをみいだし、弟子相互も一番弟子たらんと競争しだす。グルは弟子どもの競争をさらに煽ることもままあっただろう。こうしたスパイラルが「暴走の構造」を生み出していったと考えられる。それは、どこかの若手社会学者がしたり顔で「忖度」があったなどと言っていたが、そんな程度のものではない。
松本がヨガ修行者として、ヨガ修行法や仏教の知識において、また人間観察力などで他の弟子たちより抜きんでていたとしても、サリンやVXガス、その他の武器について、ましてやその製造法について知っていたはずはない。それらの知識や使用効果について弟子どもがせっせとご注進し、よし、それを使えば警察の捜査を攪乱できるぞ、それがハルマゲドンの始まりだ!などと掛け合ううちに、どんどん暴走していったと考えられる。松本が「弟子が暴走した」などと呟いたというが、ある面では真実かも知れない。しかし、それに乗っかり、自らも暴走したのであるから、その責任は重い。
1991年9月8日の「朝まで生テレビ」に出演した麻原彰晃こと松本智津夫の映像と話を改めて観たが、かれの科学に対する考え方は、素朴実証主義とでもいうレベルで、「ある公式を実験や体験によって何度も確認できれば、それが真理だ」というものである。戦後発展した他の宗教団体にも自分たちの主張は「科学的」だと述べていた教団が幾つかあったが、それと似たような程度であったことからも、上記のことは言えそうである。
もちろん、数々の殺人事件やサリン散布事件の最終決定、またその決定を宗教的な言説で正当化し、弟子たちに有無を言わせずに実行させた最終責任が松本智津夫にあることは言うまでもない。その意味で、彼が首謀者として死刑になったことは当然である。しかし同時に、松本一人でこれだけの集団的暴走を行いえたのではない。彼をカリスマ化し、そのカリスマに自ら従って集団として暴走させた責任は、彼の側近たちにもある。その意味で、側近たちの処刑が同時に行われたことに意義がないわけではない。
松本は「自分は修行によって最終解脱に達した」と語ったというが、解脱したと確信しようが、何かの生まれ変わりと主張しようが、所詮は人間であることに変わりはない。人間個人の間で能力の多様性や差はあり、ある人物が平均的な人間の能力を超えた何かをもつことはあるだろうが、だからといって自然界に生きる人間であることに変わりはない。換言すれば、自然界の物理化学的法則を越えた存在であり得るはずはない。「空中浮揚」についても、当初からトリック写真だと見抜いていた人もいたし、私もいかがわしいと思っていた。ヨガ的修行によって結跏趺坐したまま少々飛び跳ねることは出来る。それを週刊プレイボーイのカメラマンがタイミング良く撮った写真を大々的に活用して超能力だと宣伝し、それを三流メディアが面白おかしく報道しあい、それに乗せられたり、憧れたりした若者たちによって、彼のカリスマ性が捏造されていったに過ぎない。
人間は生物進化の過程で様々な能力を発展させてきた。ある種の神秘的体験、宗教的体験といわれる経験をする能力をも発展させ、あたかも霊界や超越的世界、死後の世界に行ったなどと、それら超自然的世界が実在するかのような感覚にとらわれることがある。しかし、それは人間の幻覚体験であって、そのような世界は実在しない。26日に死刑となった元信者・広瀬健一氏の手記「学生の皆さまへ」が公開されたが、彼が麻原の説く宗教的世界に飲み込まれていった過程を生々しく語っている。是非、多くの人に読んでもらいたい。 http://religion.sakura.ne.jp/religion/aum/hirose.pdf
人間には優れた面と同時に唾棄すべき面を、誰でもがもっている。人間には成功もあれば失敗もある。どんな優れた人物でも間違うことはある。善き人間は常に自己反省を忘れず、間違いを犯した際にはきちんと認めて修正していける人間である。優れた指導者は、弟子や自分の組織が暴走し始めたり、間違った方向に動き出したなら、それを身をもって止めたり、方向を変えられる人物である。松本は、その両方の面で失格であった。
私たちがこの事件をとおして学ばなければならないことは、特定の人間を神秘化したり、全知全能のごとく見なしたり、間違いのない絶対者のごとくカリスマ化することの危険性である。カリスマ的人物への盲信・盲従は危険である。そのような存在には常に懐疑の目を向けることが必要なのである。
特に、宗教現象や宗教運動を学問的に、または(人文また社会)科学的に研究する宗教学者であるなら、尚更であろう。
by 中野毅の朝風呂 [政治社会問題] [宗教全般・宗教法人関連] [コメント(0)|トラックバック(0)]
随筆_東日本大震災から宗教と文明のこれからを考える ― 2013年05月15日
随筆 東日本大震災から宗教と文明のこれからを考える
国際宗教研究所編『現代宗教2012』秋山書店、2012年7月、239-251頁。
https://1drv.ms/b/s!AgxuAU--OroagYkhczUPoVGKl_8SFw
国際宗教研究所編『現代宗教2012』秋山書店、2012年7月、239-251頁。
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