岡本亮輔『創造論者 vs. 無神論者』(講談社選書メチエ、2023年9月)を読む。2023年09月30日

著者から本書をご恵送いただいた。この種の専門書にしては面白くて、文書も上手いので、あっという間に通読した。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000381113

進化生物学・認知科学、脳科学による宗教研究に強い興味をもっているが、関連する多くの出版は難解なものが多く、読むのに苦労する。しかし、本書は岡本さんの筆力に助けられて、科学と宗教の長い論争、教育現場をめぐる戦いを明解に把握することができる。まずは著者にお礼を申し上げる。簡潔に紹介しようとFBで書き始めたが、読みやすいが基本は専門書なので、紹介文をまとめるのに時間がかかった。

第1章は、スパモン宗教やマラドーナ教会などパロディ宗教としか呼べない最近の宗教現象を、これでもかこれでもかと紹介。

第2章では、アメリカで起こった進化論論争の出発点と言える、有名な「スコープス裁判」、別称モンキー裁判(「猿裁判、モンキー・トライアル、1925年、テネシー州)について、「猿の町のエキシビジョンマッチ」として詳細に描く。テネシー州は公立学校で進化論教育を罰則付きで禁止するバトラー法が制定されたばかりであり、それに違反したと告発された新米教師のスコープスと、聖書無謬説の闘志として参戦してきた元大統領候補ブライアン、それを撃破する辣腕弁護士ダロウなどによる裁判劇を議事録などに基づいて克明に描いている。実は田舎町の「街おこし」として企画されたのが、全米に話題と論争を拡げる契機になったとのこと。
 スコープス裁判の概要は知っていたが、日本でここまで詳細に書いたものを読んでなかったので、とても楽しい勉強になった。

第3章「ポケモン・タウンの科学者たち」。この事件は知らなかった。カンザス州の州都トピカはペンテコステ運動発祥の地でもあり、グーグル社の事業を招致するためグーグルと改称したり、ポケモンのピカチュウと合体したトピカチュウと改称したりする奇妙な街でもある。その地で2005年に科学教育をめぐる法廷形式の公聴会が開かれた。仕掛けたのはカンザス州の教育委員会であり、その重要な職務の一つである教育基準の策定に際し、進化論を外し、ビッグバン理論もはずそうと前世紀末から画策していた。
 この公聴会に登場し、論議になったのは、古い聖書無謬論者ではなく、「創造科学」や「ID論(インテリジェント・デザイン論)」を唱える20人以上の自称科学者たちである。彼らは進化論を否定するが、自然科学の成果を部分的に利用して、聖書で説かれる天地創造説や何ものかに拠る「人間の創造」を説明しようとする。いわく、7日間の神による天地創造は、一日を数万年などど計算すればよい。「神」という言葉を注意深く避けて、地球の誕生から生物、人間の誕生をデザインした知的存在がいる、とかいう主張である。かれらを創造論者と呼ぼう。
 この公聴会にも主流派科学者はボイコットして一人も出席しなかったが、やはりイリゴネガライという一人の弁護士が、かれら創造論者を「デザイナーは誰だ?」などど問い詰め、論破していく様子が、ここでも雄弁に描かれている。

第4章「四人の騎士―反撃の新無神論者」で、いよいよ真打ち登場である。
 トピカの公聴会とパンダ裁判が行われた2005年頃、創造論者の息の根を止めようとする戦いが始まる。以下の4人が攻撃的無神論者の「四騎士」と呼ばれるという。その主要著書も。
サム・ハリス『信仰の終わり―宗教、テロ、理性の未来』2004年。
リチャード・ドーキンス『神は妄想である―宗教との決別』2006年。
ダニエル・デネット『解明される宗教―進化論的アプローチ』2006年。
クリストファー・ヒッチンス『神は偉大ではない―宗教はいかに全てを毒するか』2007年。

 最も有名なのはドーキンスで遺伝学、進化生物学が専門で、オックスフォード大学出身で、そこで教授として教鞭もとる天才肌の学者だ。ハリスはロサンゼルス出身で、認知神経科学の博士号をカリフォルニア大学から取得した著述家。経歴の詳細は本書を読んでいただきたいが、ともかく彼らは科学至上主義の立場から、根拠のない主張は全て否定し、神が存在するというなら、その証拠を出せ!と迫る。共通する主張点は以下の三つ。①宗教は有害で長所は何もなく、②宗教と信仰のメカニズムは進化論をはじめとする科学によって解明された。したがって、③子供たちに宗教を継承してはならず、宗教は滅びるべきである(178頁~)。

スコープス裁判もトピカの公聴会も教室をめぐる攻防だった。学校教育という超強力メディア通じて進化論を否定し、創造論が布教されるようなことになれば、「成長途中の子供たちに刷り込まれた妄説を後から取り除くのは難しい。学校がゾンビの発生源になれば手の施しようがないのだ」(140頁)。これまでも教室をめぐる多くの戦い。公立学校で毎朝行われてきた聖書の朗読や口頭での祈りは、信教の自由と政教分離を定めた合衆国憲法修正第1条に違反するという画期的な判決を最高裁が出した1962年のエンゲル対ヴァイターレ裁判なども、しっかり紹介してある(141-143頁)。
ドーキンスはその著書『悪魔に仕える牧師』の最終章に、娘に宛てた手紙を収録した。その中で、伝統や権威、啓示を理由に何かを信じてはいけないと繰り返す。カトリックとスパモン教会には歴史の長さ以外に何の違いもないのである(173頁)。
 
 刮目した事項としては、ヒッチンスによる徹底的なマザー・テレサ批判である(155-159頁)。テレサを聖女、スターに祭り上げたのはメディアであり、奇跡の捏造までしていると。何よりも問題なのは、テレサが苦しみを愛し、病に苦しむ患者を十字架のイエスに重ねて、病気そのものを直すことをないがしろにしたことだ。彼女が造った「死を待つ人の家」はホスピスとしては余りにも粗末で、医療知識のない修道女やボランティアが患者を診ているだけだった。これでは直る人も直らないと。
 国立ヒトゲノム研究所所長としてヒトゲノム計画を成功させ、その後、国立衛生研究所のトップとして新型コロナウィルス対策を指揮した遺伝学者フランシス・コリンズ博士も「神の存在を感じる」とスピーチ(219-224頁)
 グールドのNOMA概念の紹介(241頁~)。科学と宗教にはそれぞれ固有の縄張りがあり、それぞれの役割を果たすべしという立場。

 終章では、科学と宗教の関係の可能性を、以下の五つにまとめている。
①闘争排他モデル。これは新無神論者の宗教を一切認めない立場。②調和融合モデル。科学と宗教を互いに高め合える仲間とするもの。③分離独立モデル。グールドのNOMAの立場。国立科学教育センターの戦略。以上の①~③は、それぞれ敵、仲間、赤の他人に相当する。筆者はさらに、④境界変動モデル。科学と宗教の教導権を必要に応じて確認・交渉するもの。⑤流用モデル。科学と宗教のどちらかに軸足を置きつつ、必要があれば他方を借用・動員するもの。結婚式や葬式の時に宗教を文化として利用する関係。日本人には馴染みかもしれない。

簡単に紹介するつもりが、長くなってしまった(笑)。基本は専門書なので、やはり簡単には紹介できない。ともあれ、この問題を明解に、かつ引き込ませる文章で書き上げた筆者・岡本亮輔氏には感心するしかない。

先日、藤井修平著『科学で宗教が解明できるか―進化生物学・認知科学に基づく宗教理論の誕生―』(勁草書房、2023年1月)の書評(https://tnakano1947.asablo.jp/blog/2023/09/24/9620197)を紹介したが、この本は博士論文がベースなので難解なのが課題である。

それに比べ、本書は文も巧みで読みやすく、この領域を学ぶ上では格好の入門書かつ専門書だと痛感している。彼は、先の岡本亮輔『宗教と日本人-葬式仏教からスピリチュアル文化まで-』(中公新書、2021年4月)も傑作だと評価しているが、二年ほどで「科学と宗教」問題の最前線を描ききるとは思いもよらなかった。まことに後生畏るべしである。

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