南原繁研究会編『今、南原繁を読む―国家と宗教とをめぐって―』(横濱大氣堂、2020年6月20日)を読む2020年09月21日

  本書は2019年11月2日(土)、神田学士会館にて開催された第16回南原繁研究会シンポジウム「今 南原繁を読む―生誕130年に寄せて―」における講演、パネル・ディスカッションを収録したものであり、講演者はイスラム学者の板垣雄三氏、宗教学者の島薗進氏、ディスカッタントには伊藤貴雄、宮崎文彦、晏可佳の各氏ほかが登壇している。

発刊直後にご恵贈いただき、部分的には目を通していたが、ここ数年進めている共同研究【「占領と日本宗教」再考―連合国のアジア戦後処理と宗教についての再検討―(仮)】の共編著出版のための原稿を仕上げるにあたり、全体を把握したいと読破した。いやはや、その内容は痛烈で濃く、久しぶりに感動したので、お礼もかねてご紹介したい。

  南原繁(1889-1974)は、ご承知のように香川県で生まれ、1907年に第一高等学校に入学、1914年に東京帝国大学を卒業して内務省に入るが、1921年には東京帝国大学に戻って法学部助教授、その後、教授を経て、敗戦後の1945年12月に東京帝国大学総長に就任し、戦後の教育改革、新憲法の審議や講和問題などで戦後日本の建設に大きな貢献をした人物です。1945年前半の法学部長時代には、高木八尺氏らと英米を介した終戦工作にも携わり(本書136頁~にも詳述)、「天皇の聖断」による戦争終結を主張したのも南原だったと言われています。
 思想的には、一高時代の校長だった新渡戸稲造から大きな感化を受け、内村鑑三との親交によって無教会派クリスチャンとしてリベラルな論陣をはりました。フィヒテなどドイツ理想主義の研究を基礎に政治についての哲学的研究を進め、日本の「国体」の疑似宗教性を批判し、その成果を『国家と宗教』(1942年)にまとめました。
かの丸山真男も彼の弟子になるのですが、この南原繁を学問や思想、人生の師と仰ぐ方々によって、南原繁研究会は組織され、長年にわたって研究会やシンポジウム、出版を重ねてきた。それだけも敬意を覚えるが、この種の会がおおむね顕彰や賛嘆する類いのものが多い中で、南原の仕事、思索を内在的に捉え直すと共に、批判的学問的な検証も行うことにもやぶさかではないことが、本書によって示されている点においても、重ねて敬意を表したい。

  講師二人の批判的検証はなかなか読み応えがあります。

講演1.板垣雄三氏は、南原が改革した新制東京大学の第一期生で、その後も30年以上東大で教え続けたイスラム学者であります。彼はキリスト教とイスラムの歴史と競合、教理的展開に詳しい立場から、南原の『国家と宗教』を読み直し、彼のヨーロッパ精神史の捉え方がプラトン/アウグスティヌス/トマス/ルター/カント/ヘーゲル/ニーチェの系譜からマルクス主義とナチズムを位置づけ、日本国家・民族の針路を考究するという、現代からすると余りに狭い西欧中心主義の視点に捕らわれている点、イスラム文明との関係性抜きにキリスト教や欧米社会文化の発展を理解できない点、また南原のキリスト教の理解もその多様性やユダヤ教などへの顧慮がまったく欠落している点などを驚くほど鋭く批判しています。
 板垣氏の批判は、現在の学的レベルからは当然ですが、それだけでなく、当時すでに進展していた研究への目配りが足りなかったと、内在的批判になっているのが凄い点でした。

講演2.島薗進の「南原繁・無教会・国家神道」も鋭く、驚愕の事実を指摘しています。敗戦当時の日本の指導層が「教育勅語」の廃止に消極的であり、その影響で「政教分離」を指令し、国家神道の廃絶を命じた「神道指令」からも外されたことは周知のことだが、南原も例外ではなく、教育勅語は天地の公道を示したものと肯定的にとらえていた。それにとどまらず、彼は神権的国体論と神聖天皇崇敬もほぼ当時の政府見解に即して受容して、さほどの批判もしていなかった。「玉音放送」を聞いた南原は天皇の心情を思って落涙したとか、「天長節」を祝う演説で、一系の皇室を上に抱く日本が遠き昔から聖別して、天皇の「宝寿の無窮」を祝う日と述べるなど、神権的国体論を無批判に受け入れていたようです。
 新憲法の改正に対しても、南原は批判的で、それは余りにも西洋的であり、日本の統治権の独自性は、「日本古来から伝わり、今日に至るまで守られてきました、いわゆる神勅にある」(40頁)と論じ、「肇国以来」、神勅に由来する天皇の地位を尊ぶ国体が存在し続けたという認識をもっていた。国家が始まって以来、一度も変わっていない国体が日本の民族的共同性の核にあるものだというのです。従って、憲法改正によって西洋的な民主国家になるのは行き過ぎで、君民同治の日本民族共同体を形成すべきだという論を展開していたようです。そこには神聖天皇崇拝や神権的国体論が明治維新以降に造られたものという認識はうかがえません。西洋思想に依拠し、近代人としての自律・自由を尊ぶ政治理論を構築してきたはずの南原が、ここまで神権的国体論の立場を深く受け入れてきたのかと驚くような論の展開だと、島薗進氏は指摘しています(42頁)。

 そのほか興味深い諸氏の議論が満載です が、もう一つだけ紹介しますと、加藤節「南原繁と丸山真男」(174~184頁)です。丸山真男が南原の弟子筋にあたることは既に記しましたが、加藤氏によると、丸山の思想と学問は南原の対極、もしくは否定性のうえにあるという、これも刺激的な報告でした。南原が政治は「文化創造の業」の一つであり、教育や芸術と並ぶ一つの固有の領域と捉えるのに対し、丸山はそれは「暴力」や「支配階級の搾取の道具」というネガティブなもので、人間活動の諸領域に亘って働く力と考えていました。ファシズムへの批判では共通していましたが、南原は個人を超越すると共に「神の国」に連なり、「世界主義」に結びつく民族共同体の確立に賭けたのに対し、丸山は民族や国家に先立つ主体的な近代的個人の可能性を探究しつづけていました。その延長に、自由な個人の人格を重視する視点から天皇制を否定し、天皇の政治的責任を曖昧にすることを拒否した丸山の態度は、天皇制を容認し、その戦争責任を道徳的な問題に限定した南原とは、決定的に離反しているという(182頁)。そのほかの面も含め、両者の大きな差異を明確に論じた加藤氏の論もまた、熟読をお薦めする報告でした。
 ちなみに本書の文脈とは無関係ですが、加藤節氏は成蹊大学名誉教授で、安倍晋三・前総理の学生時代の恩師だった方です。勉強をしない落第学生だと厳しく指摘していたことは、よく知られることになりました(笑)。


  さて、そもそも筆者が南原に感心をもったきっかけは、「人間革命」という考え方や発想を戦後最初に表明した人物が南原繁だったからであり、その点について長年研究している伊藤貴雄・創価大学文学部教授が、本シンポジウムに登壇し、その報告を「民主主義を支えるもの―南原繁と「精神革命」「人間革命」の理念―」として寄せています。このテーマについての伊藤氏の早い時期での指摘は、論文「第4 回入学式講演『創造的生命の開花を』とその歴史的背景」(『創価教育』第7号、2014年3、63~76頁、特に73~74頁参照)でした。これらをもとに学んで言えることは、次のような点です(以下、論文用に書いた文章ですので、文体が変わります)。

「人間革命」という用語は、敗戦後の一九四五年一二月に東京帝国大学総長に就任した南原繁によって頻繁に語られ、当時の流行語になっていた。南原は日本が全体主義国家に成り果て、無謀な戦争に突入して破綻したのは、軍閥や一部官僚・政治家の無知と野心によるとしながらも、それらを許したのは「自律と自由」な精神を失って迎合した知識人や国民の「内的欠陥」にあると捉え、戦後における真の民主主義実現のためには日本国民の精神的変革が不可欠であることを敗戦直後から主張した。総長就任後の一九四六年一月一日のラジオ放送「学生に興ふる言葉」一九四六年一月一日)では、戦後の改革には「社会的革命と相並んで、或いは寧ろその前提として人間の革命でなければならぬ。人間の革命―わが国民の精神革命―はいかにして可能であるのか」という問題提起のもとで語った。また一九四七年九月三〇日の卒業式演述「人間革命と第二産業革命」では、人間そのものの革命、すなわち「人間革命」なくしては民主的政治革命も社会的経済革命も空虚となり、失敗に終わると警鐘を鳴らしたのである。

それに刺激されてか、一九四六年の夏頃には日本では「人間革命」を当時の知識人やメディアがこぞって主張しはじた。哲学者・柳田謙十郎や政治学者・中村哲、経済学者・高島義哉のほか、田中美知太郎、清水幾太郎、下村寅太郎、片山正直、恒藤恭、長田新、出口勇蔵)、片山敏彦、新明正道、甘粕石介、 羽仁五郎などである。しかし、一九五〇年代に入ると論壇ではマルクス主義が優勢となりはじめ、時代状況として朝鮮戦争の勃発と警察予備隊の創設、サンフランシスコ講和条約、レッドパージなどを背景に、「人間革命」論は迂遠な主張として顧みられなくなった。
また南原が説く「精神革命」「人間革命」論には、彼が内村鑑三の無教会派クリスチャンであったからであろうが、人間の内面を自省的に突き止めていくことで、人間を越えた超主観的な絶対精神―「神の発見」と、それによる自己克服が必要だと説くように、キリスト教における宗教革命がもたらしたプロテスタント的宗教性によって実現すると考えていた。先の島薗講演はこの点を鋭く摘出し、その一方で南原の国体論や天皇観が明治以来の政府による創作であるにもかかわらず、それを戦後も無批判に受容していたことを明らかにした。
ここに南原の人間革命論の特徴、または限界があったとも言えるが、興味深い点は、日蓮信仰、日蓮主義と結びつけて、日蓮主義による人間革命、社会革命をめざす戦後初の宗教政党「日蓮党」を新妻清一郎なる人物が結成し、その政治理念として唱えられていたことである。この政党はあっという間に消えてしまったが、日蓮信仰と人間革命論を結戦後最初に結び付けた事例である。その後、創価学会第二代会長・戸田城聖は創刊した宗教雑誌『大白蓮華』第二号(一九四九年八月一〇日)の巻頭言において、「かつて、東大の南原総長は、人間革命の必要を説いて、世人の注目をあびたのであったが、われわれも、また、人間革命の必要を痛感する」と語り、自身の小説や教団の中心思想として展開し、今日では海外の創価学会インターナショナルによって世界的に広がったことは、さらに興味深い出来事である。