論文掲載「近代化・世俗化・宗教」 ― 2013年05月02日
『数理神学を学ぶ人のために』(落合仁司著、世界思想社、2009年) ― 2013年05月25日
『数理神学を学ぶ人のために』(落合仁司著、世界思想社、2009年)を読む。キリスト教神学を数字と現代物理学を用いて証明しようという意欲的挑戦。理系脱落の宗教学者として題名に惹かれて読んだが、大いに感心。ここまで神の存在とその無限性、全体性などを証明しようとする神学者の熱意と執念には脱帽する。
数理神学とは、ラテン語、ギリシャ語など従来の自然言語によってではなく、近代以降の科学的言語、すなわち数学(特に集合論と位相空間論)によって、物理学の諸成果の数学的表現と同様に、神について記述し、その近代的自然科学と矛盾しないことを証明しようとするものと、私は理解した。
アリストテレス以来、人間は世界、宇宙、自然に美しい秩序があることを見いだし、それが神の創造であること、従って自然に神の痕跡をみようとして自然神学が発展し、ギリシャ語などの自然言語、哲学的言語によって論証しようとしてきた。しかし著者は、近代の自然科学の発達によって、より普遍的な言語である数学が発見された近代以降の世界に生きる我々は、その近代的普遍言語である「数学」によって、自然の秩序を、そして遡及して神そのものを表現することが必要不可欠であると主張する。
自然の美しさ、自然の秩序に神の痕跡を見いだそうという自然神学と、その秩序を数学的に理解しようとする近代自然科学は同じ営為の表裏であるという(9)。数学は自然神学の言語なのだ。
キリスト教神学にとって、神の無限性や普遍性と共に、神がイエスとしてこの世に生まれ、その神は十字架に付けられて苦しみの中に死んだという「十字架の神学」が重要である。それによって人間の苦しみを神自身が担い、救いの道を示したからである。こういう命題を、数学的にどのように証明し、表現するのか。著者は19世紀のドイツの数学者・ゲオルク・カントルの集合論、また近代物理学における位相空間論によって証明しようとした15。
そして著者は、①神は無限集合である、②神の啓示は無限集合の部分である28、③神の受難は無限集合の限界である、等の「神学的命題」(「信仰」)を証明したと主張する。
全能の神が、何故、苦しみ死ぬのか、それは無限である神が何ゆえ限界を持つのか、という問いになる140。アリストテレス以来の形而上学、あるいは存在論による従来の神学では、神の無限が限界を有することはあり得なかった。従って、神は苦しむことも死ぬこともありえない。これを神の受苦不能性(impassibility)と呼ぶ。しかし、神学の言語を解析学わけても集合論あるいは位相空間論に移し替えれば、神の無限は無限集合、すなわち極限順序数ωあるいは位相空間ω’と表現され、前者は完備であり、後者はコンパクトであるから、神の無限には限界(bounds)が存在する。神は、苦しむことも死ぬことも、それゆえ人を愛することも可能であることが明らかであるという140。本書の圧巻な部分である。
キリスト教神学の書物を興奮し、感心して読んだのは、久しぶりだった。神学をここまで論理的に、数学的に表現し、その現代性、普遍性を証明しようとした著者の意欲に感服せざるを得ない。しかし、数学を捨てて久しい私には、これで本当に数学的に証明されたのか否かは未だに分からないと正直に言うしかない(笑)。細かい点で理解できない事は、無限集合における「限界」と無限数列の「極限」は同じ事なのか、別のことではないか?135。また位相空間論における「コンパクト」の意味がよく分からない136-7等、基礎知識の不足が響いてくる。
それら本書の数学的証明の方法以外に、この数理神学なるものが、現在の神学界において、どのように評価されるのかも、門外漢なので分からない。パリで講義されたようなので、聴講者の反応なども著者から聞けると幸いである。
本書の結論は、傾聴すべき主張で終わっている。宗教に唯一の普遍的構造を想定する宗教的普遍主義への批判である。この普遍主義はキリスト教神秘主義にも、昨今の宗教的多元主義の背景にも、そして仏教の「空」論などにも通底しているが、その論理は、神という絶対他者を前提とし、その神の愛が人間に重要な意義を持つ「十字架の神学」とは、共有される地平は何もないという。
従って宗教的普遍主義は不可能であり、それを前提とする宗教間対話は互いの宗教の根幹を破壊する普遍主義の暴力となり、またすべての宗教に普遍的な構造を発見しようとする「宗教学」の野望は見果てぬ夢に過ぎないと喝破する。
そして著者は、それぞれの宗教の通訳不可能性を前提にしつつ、互いに共存していく宗教的特殊主義の道を取るべきではないかと主張する。宗教間対話も多様な宗教の政治的な共存の手段に過ぎないと割り切る宗教的特殊主義の方が、現代の多元的な世界にとってより現実的な選択なのではなかろうかと言う。
宗教的普遍主義の牙城であった宗教学も、たとえそれが宗教学それ自体の存立基盤を揺るがすとしても、宗教的特殊主義の宗教学を模索せざるを得ないのではないか結論づけている144。
これらの主張には、その根拠付けの論理や数学的に証明されたのか否かは別として、私は説得力を感じる。宗学、教学と称して宗祖はどう言った、こう言ったと相変わらずの論議しかしていない日本の宗学者と仏教学者にも読ませたい一書である。
数理神学とは、ラテン語、ギリシャ語など従来の自然言語によってではなく、近代以降の科学的言語、すなわち数学(特に集合論と位相空間論)によって、物理学の諸成果の数学的表現と同様に、神について記述し、その近代的自然科学と矛盾しないことを証明しようとするものと、私は理解した。
アリストテレス以来、人間は世界、宇宙、自然に美しい秩序があることを見いだし、それが神の創造であること、従って自然に神の痕跡をみようとして自然神学が発展し、ギリシャ語などの自然言語、哲学的言語によって論証しようとしてきた。しかし著者は、近代の自然科学の発達によって、より普遍的な言語である数学が発見された近代以降の世界に生きる我々は、その近代的普遍言語である「数学」によって、自然の秩序を、そして遡及して神そのものを表現することが必要不可欠であると主張する。
自然の美しさ、自然の秩序に神の痕跡を見いだそうという自然神学と、その秩序を数学的に理解しようとする近代自然科学は同じ営為の表裏であるという(9)。数学は自然神学の言語なのだ。
キリスト教神学にとって、神の無限性や普遍性と共に、神がイエスとしてこの世に生まれ、その神は十字架に付けられて苦しみの中に死んだという「十字架の神学」が重要である。それによって人間の苦しみを神自身が担い、救いの道を示したからである。こういう命題を、数学的にどのように証明し、表現するのか。著者は19世紀のドイツの数学者・ゲオルク・カントルの集合論、また近代物理学における位相空間論によって証明しようとした15。
そして著者は、①神は無限集合である、②神の啓示は無限集合の部分である28、③神の受難は無限集合の限界である、等の「神学的命題」(「信仰」)を証明したと主張する。
全能の神が、何故、苦しみ死ぬのか、それは無限である神が何ゆえ限界を持つのか、という問いになる140。アリストテレス以来の形而上学、あるいは存在論による従来の神学では、神の無限が限界を有することはあり得なかった。従って、神は苦しむことも死ぬこともありえない。これを神の受苦不能性(impassibility)と呼ぶ。しかし、神学の言語を解析学わけても集合論あるいは位相空間論に移し替えれば、神の無限は無限集合、すなわち極限順序数ωあるいは位相空間ω’と表現され、前者は完備であり、後者はコンパクトであるから、神の無限には限界(bounds)が存在する。神は、苦しむことも死ぬことも、それゆえ人を愛することも可能であることが明らかであるという140。本書の圧巻な部分である。
キリスト教神学の書物を興奮し、感心して読んだのは、久しぶりだった。神学をここまで論理的に、数学的に表現し、その現代性、普遍性を証明しようとした著者の意欲に感服せざるを得ない。しかし、数学を捨てて久しい私には、これで本当に数学的に証明されたのか否かは未だに分からないと正直に言うしかない(笑)。細かい点で理解できない事は、無限集合における「限界」と無限数列の「極限」は同じ事なのか、別のことではないか?135。また位相空間論における「コンパクト」の意味がよく分からない136-7等、基礎知識の不足が響いてくる。
それら本書の数学的証明の方法以外に、この数理神学なるものが、現在の神学界において、どのように評価されるのかも、門外漢なので分からない。パリで講義されたようなので、聴講者の反応なども著者から聞けると幸いである。
本書の結論は、傾聴すべき主張で終わっている。宗教に唯一の普遍的構造を想定する宗教的普遍主義への批判である。この普遍主義はキリスト教神秘主義にも、昨今の宗教的多元主義の背景にも、そして仏教の「空」論などにも通底しているが、その論理は、神という絶対他者を前提とし、その神の愛が人間に重要な意義を持つ「十字架の神学」とは、共有される地平は何もないという。
従って宗教的普遍主義は不可能であり、それを前提とする宗教間対話は互いの宗教の根幹を破壊する普遍主義の暴力となり、またすべての宗教に普遍的な構造を発見しようとする「宗教学」の野望は見果てぬ夢に過ぎないと喝破する。
そして著者は、それぞれの宗教の通訳不可能性を前提にしつつ、互いに共存していく宗教的特殊主義の道を取るべきではないかと主張する。宗教間対話も多様な宗教の政治的な共存の手段に過ぎないと割り切る宗教的特殊主義の方が、現代の多元的な世界にとってより現実的な選択なのではなかろうかと言う。
宗教的普遍主義の牙城であった宗教学も、たとえそれが宗教学それ自体の存立基盤を揺るがすとしても、宗教的特殊主義の宗教学を模索せざるを得ないのではないか結論づけている144。
これらの主張には、その根拠付けの論理や数学的に証明されたのか否かは別として、私は説得力を感じる。宗学、教学と称して宗祖はどう言った、こう言ったと相変わらずの論議しかしていない日本の宗学者と仏教学者にも読ませたい一書である。
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