赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』を読む ― 2019年01月09日
戦後直後に東大総長となり、「人間革命」の必要性を初めて唱えた南原繁の信仰的背景を学ぶため、赤江達也『「紙上の教会」と日本近代-無教会キリスト教の歴史社会学-』(岩波書店、2013年)を読み始めた。内村鑑三の不敬事件の詳細から。読みごたえある良い本だ。
https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b261295.html …
1917年頃の内村は再び「キリスト教ナショナリズム」を語りだす。娘の死と第一次世界大戦に失望して、再臨信仰と「第2の宗教改革」を日本が担うのだという「日本」が果たすべき世界史的=救済史的な使命を積極的に語るようになる(138前後)。
第3章は特に面白い。南原繁と矢内原忠雄が、キリスト教の普遍性が日本精神によって実現すると考えたり、キリスト教「ナショナリズム」を提唱し、かつそれは敗戦によって日本民族は純化しえたと強い民族主義的色彩を帯び、国家論の中心に民族の宗家としての天皇をおき、それへの忠君愛国を説く。
矢内原は、天皇は日本人の「徳」を体現する存在として全ての日本人を代表しており、「天皇のキリスト教化」による「日本精神のキリスト教化」が、「日本の宗教改革」の一つの道筋と考えていた(236)という。戦前の日蓮主義者が天皇を日蓮に帰依させて国威の発揚を主張したのと同型という印象。
異言や神癒を説く、いわゆるペンテスコテみたいな霊性運動が日本では無教会派の系譜から出てきたことは驚き。手島郁郎の「キリストの幕屋」運動である(262-)。それを無教会主義の成長、または「宗教」として成熟した証として支援したのが塚本虎二、関根正雄。合理主義から強く批判したのが矢内原。
読了して大変勉強になった。戦後の社会科学・社会思想をリードした南原、矢内原、大塚久雄、内田芳明、松田智雄、西村秀夫、安藤英治、住谷一彦などが全て無教会派の人々だった。ウェーバー研究もその信仰との関わりの中でなされていた。宗教学・宗教社会学における「信仰」中心主義の一因もここにあったことが分かる。
本書は、これまで教義や集会を中心に論じられてきた無教会主義運動を「紙上の教会」として講義と雑誌発刊、その読書運動としての「社会性」を解明した点で極めて有益であった。またナショナリズム、民族主義、全体主義との、また天皇制との親和性の解明も刺激的であった。
ただ内村鑑三にしても、南原繁、矢内原にしても、彼らが彼らが何故にそのような強固な信仰を築きえたのか、またどんな内的信仰の世界をもっていたのか、神とイエスとの関係、他の諸派との教義的、神学的相違がよく分からなかった。やはり本人の著作などをもっと勉強しなければならない。
https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b261295.html …
1917年頃の内村は再び「キリスト教ナショナリズム」を語りだす。娘の死と第一次世界大戦に失望して、再臨信仰と「第2の宗教改革」を日本が担うのだという「日本」が果たすべき世界史的=救済史的な使命を積極的に語るようになる(138前後)。
第3章は特に面白い。南原繁と矢内原忠雄が、キリスト教の普遍性が日本精神によって実現すると考えたり、キリスト教「ナショナリズム」を提唱し、かつそれは敗戦によって日本民族は純化しえたと強い民族主義的色彩を帯び、国家論の中心に民族の宗家としての天皇をおき、それへの忠君愛国を説く。
矢内原は、天皇は日本人の「徳」を体現する存在として全ての日本人を代表しており、「天皇のキリスト教化」による「日本精神のキリスト教化」が、「日本の宗教改革」の一つの道筋と考えていた(236)という。戦前の日蓮主義者が天皇を日蓮に帰依させて国威の発揚を主張したのと同型という印象。
異言や神癒を説く、いわゆるペンテスコテみたいな霊性運動が日本では無教会派の系譜から出てきたことは驚き。手島郁郎の「キリストの幕屋」運動である(262-)。それを無教会主義の成長、または「宗教」として成熟した証として支援したのが塚本虎二、関根正雄。合理主義から強く批判したのが矢内原。
読了して大変勉強になった。戦後の社会科学・社会思想をリードした南原、矢内原、大塚久雄、内田芳明、松田智雄、西村秀夫、安藤英治、住谷一彦などが全て無教会派の人々だった。ウェーバー研究もその信仰との関わりの中でなされていた。宗教学・宗教社会学における「信仰」中心主義の一因もここにあったことが分かる。
本書は、これまで教義や集会を中心に論じられてきた無教会主義運動を「紙上の教会」として講義と雑誌発刊、その読書運動としての「社会性」を解明した点で極めて有益であった。またナショナリズム、民族主義、全体主義との、また天皇制との親和性の解明も刺激的であった。
ただ内村鑑三にしても、南原繁、矢内原にしても、彼らが彼らが何故にそのような強固な信仰を築きえたのか、またどんな内的信仰の世界をもっていたのか、神とイエスとの関係、他の諸派との教義的、神学的相違がよく分からなかった。やはり本人の著作などをもっと勉強しなければならない。
佐藤優「『新・人間革命』完結にみる創価学会のゆくえ」について ― 2019年01月20日
『中央公論』2019年1月号に載っていた佐藤優「『新・人間革命』完結にみる創価学会のゆくえ」についての感想。かねてから彼が何故に創価学会にこれほどコミットしているのか、不思議な方だと思っていたが、この論考で少し分かった。
彼は日本基督教会に属するプロテスタント・クリスチャンであるが、エキュメニズムというキリスト教諸派を再統一する運動を推進するエキュメニズム神学の立場から、キリスト教の枠を超えて、他宗教や無神論者・無宗教者との対話にも広げようとしている。その立場から創価学会を理解しようとしているが、そのためには創価学会の内在的論理をとらえることが重要だという。あくまでも1人の宗教人として関心だという。この点で、客観性を強調する宗教学者や非難を目的とする創価学会ウォッチャーとは違うと主張する。
彼が創価学会に敬意を抱くのは、戦時中に国家権力の弾圧に対して徹底的な非暴力抵抗路線を展開したことにあり、そこには戦時体制に積極的に協力した日本基督教団への批判が根底にある。牧口の不屈の精神は今なお不滅であると讃える。
ゆえに池田会長の『人間革命』『新・人間革命』を、戦争に反対し、平和を希求する創価学会の「精神の正史」と捉えて重視する。また『新・人間革命』の序文に記された「私の足跡を記せる人はいても、私の心までは描けない。私でなければわからない真実の学会の歴史がある。・・・」を引用しつつ、この本は池田会長の足跡のみでなく、「心」が描かれている事が重要で、読者も心で読むことが求められているという。佐藤氏もエキュメニズム神学の方法はまさに他宗教の信者がそのテキストをどう受け止めているかという視座から、この「精神の正史」の本質を捉えることができたと述べる。宗教学者らは、このアプローチができないと批判もしている。
さらにキリスト教徒のアナロジーで言うならば、日本国内における活動を描いた『人間革命』はイエス・キリスト誕生以前の出来事が記された『旧約聖書』、池田会長による世界宗教化の基盤を整える『新・人間革命』が『新約聖書』で、イエス・キリストの言行録である「福音書」に相当するという。ご丁寧に、今後は弟子たちの信仰継承を描いた新約聖書の使徒言行録のようなものが、創価学会によって編纂されていくことになろうと予見している。
創価学会の本質は仏法に基づくヒューマニズムであり、キリスト教が説く「神のヒューマニズム」と創価学会の人間主義には共通の基盤があると結んでいる。
以上、要点を整理したが、このような捉え方をどう評価するか今後検討したい。少なくとも上記のアナロジーはあまりいただけない。これでは池田会長が「神の子・イエス=神」になってしまう。また最近、『(新・)人間革命』を現代の法華経だと評した方がいたようだが、このような捉え方が今後増えるのかもしれないが、慎重に考えたいものである。
彼は日本基督教会に属するプロテスタント・クリスチャンであるが、エキュメニズムというキリスト教諸派を再統一する運動を推進するエキュメニズム神学の立場から、キリスト教の枠を超えて、他宗教や無神論者・無宗教者との対話にも広げようとしている。その立場から創価学会を理解しようとしているが、そのためには創価学会の内在的論理をとらえることが重要だという。あくまでも1人の宗教人として関心だという。この点で、客観性を強調する宗教学者や非難を目的とする創価学会ウォッチャーとは違うと主張する。
彼が創価学会に敬意を抱くのは、戦時中に国家権力の弾圧に対して徹底的な非暴力抵抗路線を展開したことにあり、そこには戦時体制に積極的に協力した日本基督教団への批判が根底にある。牧口の不屈の精神は今なお不滅であると讃える。
ゆえに池田会長の『人間革命』『新・人間革命』を、戦争に反対し、平和を希求する創価学会の「精神の正史」と捉えて重視する。また『新・人間革命』の序文に記された「私の足跡を記せる人はいても、私の心までは描けない。私でなければわからない真実の学会の歴史がある。・・・」を引用しつつ、この本は池田会長の足跡のみでなく、「心」が描かれている事が重要で、読者も心で読むことが求められているという。佐藤氏もエキュメニズム神学の方法はまさに他宗教の信者がそのテキストをどう受け止めているかという視座から、この「精神の正史」の本質を捉えることができたと述べる。宗教学者らは、このアプローチができないと批判もしている。
さらにキリスト教徒のアナロジーで言うならば、日本国内における活動を描いた『人間革命』はイエス・キリスト誕生以前の出来事が記された『旧約聖書』、池田会長による世界宗教化の基盤を整える『新・人間革命』が『新約聖書』で、イエス・キリストの言行録である「福音書」に相当するという。ご丁寧に、今後は弟子たちの信仰継承を描いた新約聖書の使徒言行録のようなものが、創価学会によって編纂されていくことになろうと予見している。
創価学会の本質は仏法に基づくヒューマニズムであり、キリスト教が説く「神のヒューマニズム」と創価学会の人間主義には共通の基盤があると結んでいる。
以上、要点を整理したが、このような捉え方をどう評価するか今後検討したい。少なくとも上記のアナロジーはあまりいただけない。これでは池田会長が「神の子・イエス=神」になってしまう。また最近、『(新・)人間革命』を現代の法華経だと評した方がいたようだが、このような捉え方が今後増えるのかもしれないが、慎重に考えたいものである。
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