島薗進編『政治と宗教』(岩波新書)出版案内2023年01月24日

 出版のご案内です。島薗進編『政治と宗教: 統一教会問題と危機に直面する公共空間』(岩波新書、1月24日刊)。第3章を担当しました。本書は、安倍元首相の殺害事件により次々と明らかになった旧統一教会と自民党との驚くべき癒着の実体を受けて、政治(家)と宗教団体の関係はどうあるべきなのか問題提起した一書です。多様な個人や集団が合意を形成して社会を形成・運営する場を「公共空間」とすると、現在の日本における公共空間は、旧統一教会や日本会議など右派宗教団体と自民党とのもたれあい、創価学会と公明党との関係などで歪められているのではないかという編者の問題提起が前提となっています。

 第1章は宗教学者の島薗進(東京大学名誉教授)氏が、第2章は世耕自民党議員と統一教会をめぐるスラップ訴訟で勝訴的和解を勝ち取った中野昌宏(青山学院大学教授)氏が、教会の歴史、教義、自民党、特に岸信介からの密接な関係、凶悪事件の疑いとそれを握り潰した政治の力を克明かつ簡潔に描いています。文鮮明を現代のメシアとし、韓国はアダム国家で、堕落させた女エバのサタン国家が日本、日本の信者が膨大な金を貢ぐのは植民地支配した過去への贖罪(蕩減)だとか、先祖を地獄から救い出すため(先祖解怨)には高額の献金をせよと恐喝まがいの教えを説くなど、信者を奴隷化し人権を蹂躙する教義を掲げ、なおかつ政治的には文鮮明は天皇を支配する存在であると主張している統一教会が、岸・安倍三代を中心とする自民党右派や自称愛国主義者達が深く結託していた事実が明らかにされてます。それには驚くほかはありません。1970年代には霊感商法で社会からの批判を浴び、その後、静かになっていたと思っていましたが、そうではなかったわけです。

 第3章「自公連立政権と創価学会」は私が書きました。戸田時代に政治を庶民の手に、国立戒壇建立などの目標を掲げ無党派で政界に進出し、池田時代に宗教政党・公明党を結成して自民党政権に挑戦し、やがて国民政党に変わり、ついには自公連立にいたる創価学会の政治参加の過程を段階的に整理しました。
 さらに自民党との連立に至った諸要因を検討し、自公連立政権への参加は国民の生活支援のための諸政策の実現など利点はあるが、自民の失政に共同責任を取らされたり、右派との妥協など代償も少なくないこと。公明党は支持者に多い階層的に低い人々を上昇させる長期的なマクロ政策を打ち出して自民との相違を明確にする必要性。党組織の確立と主体的な選挙運動、党首選や候補者選定での透明化や公開性の必要性。また信仰と政治的信条は別であり、会員の政党支持は結党以来公式には原則自由とされ、公明党支援は会員の自発的な同意が前提となる、従って異なる政治的見解をもつ会員へさらなる寛容性が必要であることなど、自公連立の利点と代償、今後の課題について書きました。
 様々な宗教者や宗教団体が公共空間に参加していくことは歓迎すべき事です。その際には社会の公益性への貢献、基本的人権の重視、自他の相互尊重を大前提とし、公開性と透明性が不可欠です。創価学会の政治参加のプロセスは公共空間への参加の一形態であり、一過程でもあります。今後のさらなる改善と進展を期待しています。

 第4章はフランスの政教関係ライシテの専門家である伊達聖伸氏がエホバの証人や統一協会などの「セクト」対策の経緯と特徴、2001年の「反セクト法」の制定とその運営、経緯と課題について論じています。

 第5章はアメリカ宗教専門家の佐藤清子氏が、アメリカの政教分離制度、政治家と宗教の深い関係、宗教的理念による活発な市民運動を論じています。統一教会は米でも1970年代後半に問題となり、文鮮明が脱税容疑で逮捕され、岸信介が釈放嘆願書を大統領に送ったことは有名です。なお米国では宗教団体が選挙での支援する運動は禁じられてるが、信徒による政治活動委員会を組織して支援活動をしています。
近年における政治と宗教のあり方を再考察する上で、参考にしていただければ幸甚です。

https://www.iwanami.co.jp/book/b618315.html?fbclid=IwAR2i_ftgIYbv1MIfhQo4V2AVKI8gOGn5YGhD26RPYyXS0qVsTNgvu9Xbgac

編著『占領改革と宗教-連合国の対アジア政策と複数の戦後世界-』刊行2022年09月01日

 2022年8月15日は「終戦77周年」ということで、追悼式典など様々な行事や特集番組が組まれた。しかし、8月15日ははたして「終戦の日」なのだろうか?実は、その法的根拠が確定したのは、戦後18年も経過した1963年5月14日に第二次池田勇人内閣が閣議決定した「全国戦没者追悼式実施要項」である。1952年4月28日に講和条約が発効して占領が終了する前後から、「朝日新聞」などメディアが先導する形で「8・15終戦記念日特集」が組まれ始め、やがて左右社会党の再統一と保守合同が実現した1955年に終戦10周年記念として8月15日が大々的に祝賀されるなど、「8・15終戦神話」が次第に形成されていったのである。佐藤卓己はそれを「国民的記憶」がメディアよって再編成された「国民的記憶の55年体制」と呼んでいる 。占領から解放され、朝鮮戦争特需をへた経済成長が見えてきた時代における新たなナショナリズムの勃興と軌を一にして、この終戦神話が強化され定着していき、その結果として63年の閣議決定で確定させたに過ぎない。
 1945年8月15日は、連合国によるポツダム宣言を受諾し、無条件降伏すると昭和天皇が国民に告げた「敗戦告知の日」である。国際法上は、日本降伏の日は、日本本土では東京湾上のミズーリ号上で行われた降伏文書調印式の9月2日であり、沖縄を含む南西諸島は9月7日である。もっとも沖縄戦の正式終了は同年7月2日なので、降伏文書調印式まで二ヶ月以上経っている。かくして日本における「戦後」は少なくとも二つあり、朝鮮半島や台湾などの旧植民地を含めると「複数の戦後」がある。
 このような視点から、前大戦後の日本本土、南西諸島と旧植民地の戦後世界を改めて検証しようと、ここ数年共同研究を進めてきましたが、『占領改革と宗教―連合国の対アジア政策と複数の戦後世界―』(専修大学出版局、2022年9月12日)として発刊した。
https://www.amazon.co.jp/dp/4881253735/

 各執筆者から原稿をいただいて編集作業を開始したのが、2021年夏前でしたが、この一年間に世界と日本を揺るがす大きな出来事が3件も勃発しました。2021年8月のアフガニスタンからの米軍の完全撤退とタリバンによる再支配、本年2月24日に突如開始されたロシアのウクライナ侵攻、そして7月8日の安倍元首相の殺害です。その全てが本書のテーマである「軍事占領と宗教」「国家・政治と宗教」に関連する出来事であることに、驚きを禁じ得ません。アフガニスタンやイラクの占領と民主化は、実は日本占領がモデルになっています。果たして日本占領は成功だったのか、その問題も改めて検証する一助になればと願っています。

以下に本書出版の意義と概要について記します。

一.本書刊行の意義と概要
「占領と宗教」についての宗教学における最も包括的なものは、阿部美哉が主導的に推進した共同研究「連合軍の日本占領と日本宗教に関する基礎的研究」(研究代表・井門富二夫、一九八四‐八七年)である。この成果は井門冨二夫編『占領と日本宗教』(未来社、一九九三年)として公刊されたが、宗教学を基盤とした占領研究および日本宗教制度・日本宗教の変容に関する研究としては、当時は最も包括的かつ体系的な研究であった。

阿部・井門らの研究は、ウッダードの研究と成果である、Woodard, W. P., The Allied Occupation of Japan 1945-1952 and Japanese Religions, E.J. Brill, 1972(邦訳『天皇と神道』(阿部美哉訳、一九八八年)を受けたものでもあった。ウッダードは総司令部情報教育局(SCAP/CIE)宗教課に調査スタッフとして勤務した経験から、総司令部内部の第一次資料にもとづいて人権指令、神道指令、宗教法人令、宗教法人法など主要な宗教政策の成立過程と実施にまつわる諸問題の処理について詳細に検討した。特に「神道指令」における国家神道の廃止と政教分離に関連して、「国体のカルト」の廃絶をめざしたものであって、神社神道を廃止しようとしたのではない等の重要な指摘がなされている。
阿部・井門らは、さらに米国の占領政策の形成過程に踏み込み、神道指令や戦後憲法での政教分離制度が日本宗教に如何なる影響を及ぼしたかを総合的に探求した。大石秀典、渋川謙一、福田繁など占領軍の下で仕事をした官僚の聞書きも収録し、史料的にも貴重な内容であった。その一端を担った中野は、戦争それ自体が、また軍事的占領による異なった文化をもつ敗戦国家の改造が、実は異なった文明間の闘争、また世界観の闘争の側面を持っており、その中核には宗教があることを認識し、収録した論考において、アメリカ合衆国と日本という二国間における宗教的世界の相克が占領政策それ自体に独特な陰翳を与えていることを指摘した。
しかしこの共同研究と出版にはいくつかの欠落点や残された課題があった。それは①「日本」と言っても本土のみであり、「沖縄・南西諸島」に対する目配りがほとんどなかったこと。②「連合国」と言ってもアメリカ中心であり、イギリスやソ連、オーストラリアなどの対日政策、とりわけ天皇制の存続やいわゆる国家神道に対してどのような考え方をしていたのかが検証されていないこと。③日本の旧植民地諸国における「占領と戦後処理」についても視野に入っていないことなどである。本書の編者の一人である中野毅は、この共同研究と出版に分担者および執筆者としてかかわったが、この残された課題にいずれは取り組みたいと願っていた。
その後三〇年近くが経過し、当時は不明だった史資料も多数発見され、公文書アーカイヴのデジタル化、さらにインターネット上での公開など、研究環境も飛躍的に向上した。多くの史料の発掘・発見もあり、新たな占領研究の成果が蓄積され、戦後レジームに対する新たな認識を再構築する必要性が高まってきた。こうした状況をふまえ、この阿部美哉・井門冨二夫らによる研究成果を基盤としつつも、それ以降に発掘・発見された最新の資料を収集し、他地域の占領政策との比較の視点から再検討すること、およびこの研究で残されていた課題を検討することによって、連合国によるに占領において宗教政策がどのように行われたのか、その比重や影響を、様々な地域における事例を通して可能な限り全体的に明らかにしていく必要があった。
日本の敗戦と占領は、さまざまな地域での複数の攻防戦の過程であり、敗戦後における連合軍の占領は日本本土だけではなく、南西諸島における占領、また日本の旧植民地であった台湾、朝鮮半島などの「複数の占領」があった。連合軍の日本占領はこれらの地域での出来事を視野に入れた研究によって、初めて全体的な把握が可能になるといえる。
 このような問題意識をもとに、二〇一四年から二〇一七年にかけて日本学術振興会科学研究費基盤研究の助成をうけて、共同研究「連合国のアジア戦後処理に関する宗教学的研究―海外アーカイヴ調査による再検討」を開始した。本研究において、①ここ三〇年間公開された資料などについて広範なアーカイヴ調査を行ない、アメリカのみならず他の連合国の対日占領政策、とくに宗教に関する戦後処理に関して、新しい資料による再検討を行うこと。②文献資料のみでなく、日本の旧植民地、旧日本軍の戦闘地域での戦時の状況を調べ、戦後処理が実際にどのように行われたか、より実証的な研究を行い、これまでの研究を再検討することをめざしたのである。

全体は三部構成となっている。
第一部「アメリカおよび連合国による占領と戦後処理―日本本土と日本人」では、近年の研究や、新史料、英国公文書館所蔵の英国外務省記録などをもとに、米国および連合国の日本占領をあらためて捉えなおす。
第二部「南西諸島の戦時と戦後」では、南西諸島の歴史的・宗教文化的特性をとらえなおし、歴史的・地理的に特殊な場所であった奄美・沖縄諸島の戦時、占領、戦後における宗教政策等について検討する。
第三部「日本の占領地・旧植民地統治と戦後」では、韓国、台湾、ミクロネシア、インドネシアなど日本によって統治・占領が行われていた地域の日本の宗教政策の実態、そして戦後の状況について考察する。

序論においては、本書刊行にいたった上記の経緯に加え、そもそも前大戦後の日本占領が連合国のいかなる命令と軍事組織によって実施されたのかを簡潔に整理し、日本がドイツのように分割占領される危険性があったこと、「無条件降伏」という概念が、軍事的降伏だけでなく、政治・経済・イデオロギー等にわたる「相手国の内的秩序の全面的再編」を求める「文明の改革」であったことなどを明らかにしている。また所収の各論文の要点と意義を簡潔にまとめてある。
各論文のほか、付論として岡﨑匡史「日本占領と公文書」、粟津賢太「解題―「占領と宗教」研究における一九九〇年代以降の動向」の二論考を収録した。岡﨑論考では、敗戦直後の日本で戦時期の重要史料を精力的に蒐集した米スタンフォード大学フーヴァー研究所の出先機関「東京オフィス」を紹介し、その史料群の重要性を明らかにしている。またフーヴァー研究所をはじめとする米国の日本占領に関連する諸アーカイヴにどのようなコレクションがあるか詳細に紹介している。
粟津賢太「解題」では、研究史の動向をアメリカのアーカイヴや日本の国会図書館、沖縄県公文書館などのアーカイヴから、憲法改正関連、国籍別の差別問題、ジェンダー・女性史関連、慰霊・追悼、国家神道関連など分野別に詳細に分析し、その進展を明らかにした。神道関連ではウッダードの研究が日本人によって歪められた経緯が指摘されている点は重要である。さらに日本の占領方式が、「当該国を軍事的に占領した連合国が排他的な実験を握るとした「イタリア方式」と、ドイツに対する「無条件降伏」「非ナチ化」など当該国の哲学まで破壊する「相手国の内的秩序の全面的再編」を目的とする方式が先例となっていることを明らかにしている。「非ナチ化」という発想は、今世紀のアメリカによるイラク占領では「非バース党化」として提言され、二〇二二年のプーチン・ロシアによるウクライナ侵攻に際して再び使われた。

島田裕巳『性と宗教』(講談社現代新書、2022年1月刊)を読む2022年03月21日

島田裕巳『性と宗教』(講談社現代新書、2022年1月刊)を読む
                                 2022.3.14 中野毅

 宗教に関連する様々な領域において、旺盛な執筆活動を続けている島田裕巳氏であるが、古くから問題とされてきたにもかかわらず、何となく躊躇されてきた印象のある「性と宗教」について正面から切り込んだ一書を刊行したので読んでみた。

 ここでの性とは、文化的社会的に形成された性差としてのジェンダーはなく、行為としてのセックスであり、生物学的な性です。なぜ、それが問題となるかといえば、仏教では「不邪淫戒」を説き、妻帯しない出家(妻帯が常態化している日本は特殊)を尊重し、キリスト教ではカトリックの聖職者独身制などが知られていて、宗教では「禁欲」、すなわち性的欲望を抑えることが望ましいと宗教一般に考えられているという印象があるからである。その一方では、宗教界における性をめぐるスキャンダルが絶えない。それは何故なのか、宗教的規制が不十分なのか、もはや時代にそぐわないのかなど興味が尽きないテーマではある。

 本書では世界の主要な宗教、すなわちユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教、仏教、ヒンドゥー教、神道などを取りあげ、性的欲望をどのように規制しているかを比較しながら解説している。新書ながら、この大きな問題を包括的に捉えた点で、なかなか意欲的であり、傑作と言える。以下、筆者が関心を抱いた点を中心に紹介する。

第1章は「なぜ人間は宗教に目覚めるのか」と題して、人間が宗教によって禁欲を命じられているのは、性欲をもち、かつ他の動物が年に一度の繁殖期に性行為をし、子孫を残すのに対し、人間は一年中性欲をもようし、性行為を行う動物であることを出発点においている。この事は筆者も重要だと常々考えている。
 また人間が言語を発達させたことが、現実に存在しないものまで概念化し、その言葉が独り歩きを始め、神や仏など超越的存在を実在するかのような世界を生み出した。
 宗教心理学のジェームス、スターバックの研究から思春期に宗教的回心が起こることに注目しているが、それは主としてアメリカにおける福音主義キリスト教においてであること、日本やイスラム世界にはあり得ないとしている。
 本書のよさは、性についての態度を主要な宗教を比較しながら検討しているので、普段、比較宗教学などを教えていても見逃してしまう事を気づかせる点にある。その最たる事が、性を否定的に捉え、禁欲を是とするのはキリスト教と仏教の一部のみであるという事実である。宗教はおしなべて禁欲を説くものと思い込んでいたことが、誤りだと気づかされた。

第2章で主にキリスト教が性を否定的に捉える理由を解説している。それは「原罪」の考えがあるからで、その発想は同じ一神教でも、母体となったユダヤ教、そしてユダヤ教の影響を強く受けて成立したイスラム教にはない。しかもイエスの福音書とされるものやパウロの書簡にもなく、つまり初期キリスト教にもその発想はなかった。原罪論を強調するようになったのは、教父アウグスティヌス(354-430)の影響だという。彼はもとはマニ教徒だったが、愛欲生活に溺れた末にキリスト教に改宗し、原罪を強調するようになったという。人間は誰もが生まれながらにして罪を負っている。人は罪人であり、あるいは必ず罪をおかす存在だという原罪論は、自己を反省する契機にもなるが、人間性を否定することでもある。そのような原罪の教義が公式の教義になったのはAD529年のオランジュ公会議においてであり、イエスが死んでから約500年も後のことである(56頁)。その背景には、初期キリスト教には「イエス(神)の再臨」は間近く、この世の悪が裁かれる「最後の審判」が行われるという観念が強かったが、いつまで経っても神は再臨しなかった。そこで教会の存在意義を強調するため「原罪」を強調し、それを許す「贖罪」の権能を唯一保有していることを「七つの秘蹟」の保持者=キリスト教会であると宣言し、存在意義を示したのである。
 従って、その後は「贖罪」のための行為が重視され、十字軍への参加も贖罪のためとされ、また現在まで続いているカトリック教会における「告解」もそのためである。

 第3章、第4章では主に仏教を扱い、3章は戒律の復興運動に力を入れ、真言律宗の事実上の開祖として知られる叡尊(1201-90)が、実は「破戒僧」の子だったことから筆を進め、仏教は出家者を主たる担い手としているため五戒を基本に具足戒として細かい禁欲的戒律が定められており、日本でも「僧尼令」(養老2,718年)で僧坊に異性を止めることを禁止したが、日本仏教界では破戒が広く行われていたことを描いている。
 4章では原始仏典に遡り、スッタニパータに不殺生戒、不邪淫戒、不飲食戒など五戒が説かれているが、その理由はさほど明示されていない。それは釈迦以前のバラモンからの伝統でもあったためでもあろうが、仏教において「愛欲が人間苦の根本」であり、仏教教団における戒律制定の嚆矢をなすものはこの淫戒である等の説を紹介している。また仏教と並んで発展したジャイナ教においては不殺生戒と不邪淫戒が強く結びつき、妻との性交も女性器にいる微生物、細菌を殺す恐れがあるとして禁じる主張があるなど、その徹底ぶりには驚愕する(110-114頁)。

 しかし、このような傾向が宗教一般に見られるわけではないと主張するのが本書の特徴でもある。第5章では性行為に価値をおく宗教として道教をあげ、エリアーデの論を活用しながら房中術を解説し、それら性の技法がインドの左道タントリズムが開発したヨーガの影響を受けていると指摘している(123頁)。この左道タントリズムがヒンドゥーのシヴァ派の一派で性力(シャクティ)を重視しており、オーム真理教が説いた「クンダリーニの覚醒」へとつながっていくことも明らかにした。
 後半では、仏教における密教も性の快楽を肯定しているものとして説明し、中でも『理趣経』において性的欲望を全面的に肯定し、むしろ完全に清らかなものとされているという(131頁)。そしてこの理趣経を日本にもたらしたのが空海であり、最澄が貸して欲しいと求めたのに空海は断ったが、それは余りに過激な内容だったからだろうと興味深い説を述べている(132頁)。
 総じて、密教は顕教における禁欲的修行では真の悟りには達し得ないとして、顕教の考え方を完全に覆す方法による悟りをめざした宗教であるという。

 第6章でイスラムについて詳細の論じ、ユダヤ・キリスト教とならぶ一神教であるが、むしろユダヤ教の影響が強く、ユダヤの律法に似てイスラム法が重視され、原罪の教えはない。衆知のことだが創唱者ムハンマドは俗人であり、神の教えを広める預言者という位置づけであること、彼が神から受けた啓示がコーランに纏められ、彼の命令や生活における教えはスンナとしてイスラム教徒の生活において重要な意味を持つことなど整理されている。面白いのはムハンマドが性欲旺盛で9人の妻を持って、一晩で全てと交わったとか、性行為そのものについてタブーは見られないこと、ただ性交の後には精液が残っていないように「浄め」てから礼拝することなど、神の前での清浄が求められたことなどが指摘されている。
 信者がなすべき信仰告白や礼拝、断食、喜捨、巡礼の5つの宗教行為(5行)が定められているが、それらを実行すればキリスト教のように自らの罪深さを自覚することも求められないし、仏教のように煩悩を自覚する必要もない。

 第7章は日本仏教でも性を否定しない宗派として親鸞と浄土真宗の発展を取りあげている。親鸞について島田氏は『親鸞と聖徳太子』(角川新書)を書いている。結局、親鸞が妻帯した理由を本人は何処にもしるしてなく、聖徳太子から授かったとされる「女犯偈」も歴史的事実としての信憑性は弱い。ともかく事実として親鸞は女犯をし、恵信尼と結婚したことは、彼女の日記から明らかであり、公然と妻帯する親鸞の生き方が、後の真宗の発展に決定的な影響をあたえたとする。典型的なのが蓮如であり、死別によるのだが5回結婚し、13人の男子と14人の女子を儲け、このうち早逝したのは2人だけだった。蓮如が最後に子供をもうけたのは亡くなる前年に83歳の時だったというから驚きである。そして、これら男子は寺の開基となり、女子は寺などに嫁いで真宗のネットワークを拡げる上で大きく貢献したのが、浄土真宗発展の一大要因としたのは興味深い。かくして全国に門徒を拡げ、多くの寄進を集めて膨大な財力と権力を獲得していったことが、江戸時代においても僧侶妻帯が許された要因のようだ。

 第8章は中世に仏教と習合した神道では、性の問題はどう扱われるか検討している。何より面白かったのは冒頭で、日本の民俗学の泰斗たちの性への関係でした。柳田は性についてはまったく触れず、南方熊楠は強い関心をもち、少年と同辱した経験をもつという。折口信夫は同性愛者だった。
その折口が執筆した代表的論文に「大嘗祭の本義」(1930年)がある。天皇が代替わりをする最重要な儀式である大嘗祭の諸儀礼のなかで悠紀殿と主基殿に敷かれている褥に注目し、そこで天皇霊と性行為を行うと解釈したのである。筆者は単純に、そこにおいて天照大神と交わるという象徴的な行為を想像していたが、折口の説ではもっと生々しく、かつ男色ともとれる行為を考えていたのではないかというスキャンダラスな説を展開している(208頁)。そのほか古事記や本居宣長、平田篤胤などの解釈、源氏物語などをあげながら、日本の神道や伝統文化には性を抑圧しようという発想は認められないとしている。

 第9章は「なぜ処女は神聖視されるのか」というタイトルで、キリスト教を再び取りあげ、処女マリアのイエス・キリストの受胎ほどスキャンダラスで問題を多く含むテーマはないと論じている。初期キリスト教や福音書などではマリアのことは余り深く触れられていないが、アウグスティヌスの影響で「原罪」論が6世紀に公式の教義となったため、マリア、およびその受胎を教義上どのように扱うかが次第に問題となった。そしてマリアの受胎を「無原罪の御宿り」、すなわち神がマリアに宿った瞬間からマリアは全ての罪から免れた「無原罪」の存在になったとする説が誕生した。それは9世紀フランスのコルビー修道院長ラドベルトウスから始まり、12世紀のイングランドの神学者エアドルメルスは神学的に裏付けようとした。しかし、この「無原罪の御宿り」がカトリック教会の正式の教義になったのはかなり後の教皇ピウス9世の回勅(1854年)によってであり、その背景に19世紀のマリア崇拝ブームがあるという。筆者としては、このマリア崇拝ブームが何故起こったのかに、特に興味をもった。
 他方、イスラム教には原罪の観念はなく、性に対する禁忌はないが、ムハンマドは処女との結婚をより好ましいものとしていたこと、さらに2001年の同時多発テロの首謀者であったウサーマ・ブン・ラーディンが出したジハード宣言で「殉教者たちは天国に召され、72人の純粋なる楽園の処女たちと結婚できる」という一節を取りあげ、イスラム教でも処女を高く評価していること、処女への憧れが殉教としてのテロ行為まで引き起こした可能性も指摘している(後者への疑問は残るが)。しかし、イスラムでは特定の処女を聖人化したり崇拝することはない。
では何故、キリスト教ではマリア崇拝が起こったのか?島田氏は、イスラム教では神の慈悲深さが強調され、あらゆることを許してくれる存在だと繰り返し説かれるが、キリスト教の神やイエスは到底慈悲深いようには見えない。そこで登場したのがマリアだ。福音書ではほとんど語られていない彼女が、やがて聖母子像などのように彫刻や絵画で幼子イエスを抱く、優しく慈悲深い存在としてクローズアップされたのだという。こうしてイエスは後景に退いて「暇な神」(エリアーデ)になり、「父なる神、神の子イエス、母マリア」という新たな三位一体が形成されることになり、そのためにはマリアが処女であり、原罪を免れていることが重要だったという(243頁)。

 おわりにでは、全体の簡単な整理をした上で、「宗教は本質的に男性中心主義」であり、仏教は約2500年前、キリスト教は2000年前、新しいイスラム教でも1400年前に誕生したものである、それらの宗教と性の関係は現代にそぐわなくなったと指摘している。また人間の特異な性のあり方が、宗教という人間特有のものを生みだし、その力で性をコントロールしてきた。しかし現代での性のあり方は宗教がコントロールできなくなっている。性と切り離された宗教は、綺麗事になるだろうが、本質的なものではなくなっていくと結んでいる。

 新書なので簡単に紹介しておこうと思ったが、大きなテーマであり、各章の内容も極めて興味深いので予定以上に長くなった。しかし、要点や私が関心をもった点は整理できた。
 本書で特に注目したのは、性と宗教を論じる際に、人間の生物学的特徴として指摘される「性欲が一年中あり、常に性交が可能な点で他の動物とは大きく異なる」という事実、また言語の獲得が宗教の誕生に決定的な意義をもっているなどの指摘から始まっている点である。これらは評者(中野)が大学院時代に故・井門富二夫先生から教えられたアルノルト・ゲーレンの哲学的人間学、またその後の進化生物学などで展開された論であり、私も幾つか論考を書いている。関心のある方は以下を参照して欲しい。

1. 中野毅「人類進化と文化の形成 ─現代人間学考2─」『創価人間学論集』第4号、2011年3月、27-55頁。
https://soka.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=36531&item_no=1&page_id=13&block_id=68

2. 中野毅「進化生物学・認知科学の発展と宗教文化―人間学考3―」同前、第7号、2014年3月、1-22頁。
https://soka.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=36543&item_no=1&page_id=13&block_id=68

3. 「学術動向:宗教の起源・再考―近年の進化生物学と脳科学の成果から―」2014.3.4『現代宗教2014』)(公財)国際宗教研究所、251-285頁。http://www.iisr.jp/journal/journal2014/ 
(1、2の論文を簡潔に整理したもの)

 ゲーレンの主張は、人間以外の動物は特定の自然環境に身体的に適応しながら生きているが、人間は生物形態学から見れば、むしろ一定の自然環境に適応する上で必要な特殊器官(体毛や甲殻などの保護器官や牙などの攻撃器官等々)が欠けており、動物一般に見られる機械的な適応本能が欠けていると考えざるを得ない。その意味では人間はヘルダーの言うように本能の機能としては「欠陥生物」であるという。その代わりに、人間の頭脳は特殊化の極限に達しており、人間は頭脳を駆使して、未来を予見し、計画に基づいて現実を変化させる「行為」を遂行することができる。この「意識的な」行為によって、変化させられた、ないしは新たに作られた事実と、それに必要な手段との総体が「文化」である。人間は行為によって自然環境を変化させ、人為的に「形成された自然」圏、すなわち文化圏の中に生きるのである(ゲーレン, アルノルト, 1999年『人間学の探求』紀伊國屋書店、復刊版(1970年邦訳初版)、32, 36-38, 91,125頁)。
 その本能的欠陥動物としての最たる特徴が、常に性欲をもようし性行為を行う事である。そのため人口も爆発的に増加し、いまや全地球を覆うまでになった。この旺盛な性欲をコントロールするため様々な婚姻規制や親族構造を構築していったといえる。
 また「言語の発達」も人間文化の大きな特徴であり、言語によって情報や知識、智惠の伝達、蓄積、世代間の継承が可能になり、今日の複雑で巨大かつ多様な文化構造を生みだしていった。またその言語によって現実には実在しない神や仏などの超自然的なものをさす言語がうまれ、それが「言霊」などとして一人歩きしだすのも人間文化の特徴である。その意味で宗教は人間文化の典型的なものであり、人間の誕生とともに宗教も誕生したと言われる所以である。
  本書では、新書の限度を越えるからだろうが、このような理論的背景については語っていない。しかしそれらを前提にしつつ、「性」のコントールを宗教が担ったという視点で書かれている。宗教の一つの機能として、それは十分に言える。ただ、それならば、「禁欲」を表だって強調しないイスラム教やユダヤ教、その他も何らかの性的規制を行っているはずであり、それらの分析はまだ十分とは言えない。
 細かい点では疑問に思う点もいくつかある。例えば「イスラム教には、・・・独身の聖職者はまったく存在していません(97頁)」のような雑な既述も散見する。そもそもイスラム教には聖職者はいない。またイスラムが一般に性に開放的なので、過激な行動を促す方向に作用している(246頁)とは単純に言えない。また死海文書の研究からマリアによるイエス受胎は正式な結婚の前であったとか、イエスは毒殺されたのであり、磔刑は単なる見せしめであって、実際に生き返ったなどと実に興味深い研究をしたバーバラ・スィーリング『イエスのミステリー』(NHK出版、1993年)などに評者はいたく感心したが、これらイエス研究やキリスト教史についての先端に必ずしも触れていない点、学問的方法論が不明など疑問点や不満はあるが、それらは今後、専門家の諸氏からのコメントを待ちたいところではある。
 しかし冒頭にも記したように、諸宗教に関する該博な知識をもとにして、「性と宗教」について新書版にまとめ上げた島田裕巳氏の学力筆力に改めて感銘した。普段は見逃していた問題点を気づかせてくださり、本書はまことに有益であった。

(この書評の全文pdfは下記からダウンロード出来ます。

https://drive.google.com/file/d/1xpN475eI6500bCbFWAEysaOWUV5sG66d/view?usp=sharing